江木姉妹小伝(8)

衷の父親は、江木俊敬という名の幕末の周防岩国藩吉川家の家臣である。
そもそも吉川家は毛利家の分家であるが、関ヶ原の戦いの時、裏切って徳川
方に内通し軍を動かさなかった。その功により、防長二州を与えられたが、
それを改易の裁定の出ていた宗家毛利に譲った。しかし毛利本家からは家を
売った裏切り者として疎まれ、この確執から岩国藩吉川家は大名とは認めら
れず、長州藩支藩扱いとされ、両者の関係も疎遠になっていた。

しかし幕末に至り、長州本藩が尊王攘夷の方針を固めた頃より関係が修復し、
岩国藩吉川経幹文久2年(1862)宗家毛利敬親の名代として上京し、京藩邸
で朝廷工作に奔走していた。俊敬は万延元年(1860)に一時岩国藩を離れてい
たが、文久2年には岩国町奉行に戻っていた。翌3年には藩主に従って京都に
同行していたようである。
そこに堺町門の変が起こる。京都から長州一派が追放されたのである。この
尊王攘夷派の三條実美卿ら7人の公家が夜半をついて京都を脱出(七卿落
ち)し、長州に落ち延びるが、この時俊敬は久坂玄瑞らと共に、7卿の護衛に
あたっている。
元治元年(1864)、長州藩の攘夷運動への報復として、英米仏蘭四ヶ国艦隊が
下関砲台に攻撃をしかけると、俊敬は藩主に建白して攘夷の勅命を説いて主
戦を強調、自らも3日にわたり、戦闘に参加している。
この戦いで長州藩はあっさり敗北してしまい、攘夷派は失速、さらに幕府の
長州征伐への動きも始まる。このため藩内は幕府恭順の俗論党勢力が主流と
なる。
しかし尊皇攘夷を唱える正義派高杉晋作慶應元年(1865)奇兵隊を率いて決
起し、俗論党を武力で一掃すべく萩城へ迫る。それに対抗して萩藩毛利政府
も正義派諸隊の追討令を発する。岩国藩では隣藩の動向を見た上で対応する
ことに決め、徳山藩の内情を探りに俊敬を派遣する。俊敬は帰藩途上、玖珂
阿山で敵の間諜と誤認され、味方の羅卒に惨殺されてしまうという、少し情
けない最期を遂げた。慶應元年1月13日。42歳であった。

高杉晋作のクーデターにより長州藩の方針は再び倒幕に纏まり、岩国藩は長
州藩と共に第二次長征に勝利して官軍となる。藩主吉川経幹もまた慶應3年
(1867)病没しているが、毛利敬親の斡旋により、慶應4年(明治元年)入封以
来268年目にして岩国藩は大名に列せられる。廃藩置県までのたった3年だけ
の大名であった。

<続く>