2009-01-01から1年間の記事一覧

江木姉妹小伝(63)

元治元年(1864)10月31日、第一次長長州征伐において健吉は18歳にして鰐水に先立ち出陣、出発前には父母に告別し、弟たちを集めて訓戒し、詩を賦した上で死を決し出立するが、先述の如く交戦する間もなく長州軍が謝罪することで戦闘は回避される。 嗟矣無謀奏…

江木姉妹小伝(62)

続いて弘化3年(1846)9月3日、三男健吉(通称乾吉)が生まれる。千之の比べて楽な出産だったようだが、「発熱焼ける如し、乳房張らず、赤子は呱々乳を索して啼く」とある。その2年後嘉永元年(1848)5月28日、次男千之が急に発熱する。「熱勢頗る劇しく」終夜昏…

江木姉妹小伝(61)

江木鰐水が初めて子を授かったのは天保13年(1842)3月12日のことである。しかしこの男の子は名を付ける間もなく、翌日に夭折している。鰐水33歳、妻の敏は文政7年(1824)生まれであるため、数え19歳ということになる。先妻の政は天保元年(1830)に20歳で亡くな…

つづく。

と、いうわけで<江木鰐水編>終わりです。ご静聴ありがとうございました。ちなみに鰐水古希祝いは、日本歴史上初の立食パーティーとして記録されていたりします。しかしまあ、モノ書くのも久しぶりなんで調子がでませんな。思ったより長くなりすぎだし。ま…

江木姉妹小伝(60)

そうして旧士族による反乱が各地で噴き出ることになる。明治7年佐賀の乱、明治9年熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、長州萩の乱、そして明治10年(1877)には遂に薩摩の西郷隆盛が下野し、西南戦争が勃発する。 江木鰐水は福山にあってこれらの騒動には参加してい…

江木姉妹小伝(59)

満を持した新政府軍は明治2年(1869)4月9日早朝、山田顕義率いる兵1,500人が乙部に上陸し函館を目指した。しかしこの戦いに江木鰐水は参加しておらず、青森に居残りとなっている。理由は不明だが、青森において函館戦争の実記や報告書、建言書などを多数書い…

江木姉妹小伝(58)

つまり、鰐水が五稜郭に向かったところ、大総督はとっくに五稜郭を放棄して函館に引き払っており、五稜郭は旧幕軍に占領されているという。驚いた鰐水は函館に急ぐが、兵隊も消え失せている。宿屋に聞いたところ、新政府軍はとうの昔に船で青森に撤退しよう…

江木姉妹小伝(57)

一人に遇ふ。余の手を挽きて、回して之が曰く、「銃声を聞く進むべからず」と。余謝し、要緊の事にて、五稜郭に赴く。銃声は未だ留るべからず。亦五・六丁を進む。津軽藩士の五・六人も亦余を留めて曰く、「大総督(清水谷公)、昨夜函館に帰りて、郭中に官…

江木姉妹小伝(56)

さてこの敗走を受けて新政府軍は戦陣を立て直し、江木鰐水は岡田総督と共に福山藩の一部を率いて函館を発し、24日早朝、大野村に布陣する。兵に朝飯を取らせた後に配陣しようとした矢先、敵襲の報を受ける。ちなみに大野村を攻撃するのは幕軍歩兵奉行大鳥圭…

江木姉妹小伝(55)

慶応4年(1868)4月11日には江戸城は無血開城しており、徳川家は謹慎となる。しかし恭順に従わない幕臣や新撰組などの幕軍残党たちは戊申戦争を追って北に向かう。幕府海軍副総裁榎本武揚は軍艦を引き連れてそのまま北海道に逃亡しており、この時榎本武揚率い…

江木姉妹小伝(54)

これより後福山藩は官軍して戊辰戦争を戦っていくことになるが、旧幕藩への仕打ちは過酷を極め、まずは伊予国松山、次いで播磨国西宮、大阪府天保山と新政府より立て続けに出兵を命じられる。そして明治元(1868)年9月7日、会津鶴ヶ城下で関場春武が壮絶な最…

江木姉妹小伝(53)

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還、同年12月9日の王政復古の大号令、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦を経て薩長土肥などの反幕軍が官軍となり、幼い明治天皇を擁した官軍により倒幕令が出される。幕軍の福山藩は敵の来襲に備え、鰐水は福山城小丸山砲台胸壁修築…

江木姉妹小伝(52)

鰐水は先代正弘の頃より藩に重用されていたが、阿部正教にも江戸に呼ばれ、以降藩中枢に近い所で活躍している。文久年間に入り、鰐水日記の記述も幕末の殺伐とした情報へと変わっていく。文久2年(1862)5月には「幕威は既に虚威」であるとの記述が見える。そ…

江木姉妹小伝(51)

先に述べたように、元来阿部家福山藩は元和元年(1619)福島正則が改易され、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成が入封して以来のバリバリの佐幕派であった。ペリー来航以後国内外に不穏な動きが広がる中、安政元年(1854)藩内の人材育成のため、藩校弘道館を発…

江木姉妹小伝(50)

江木鰐水もまた、この洋食にがっついていたひとりなのである。中国人通訳と筆談を交わした記録が菅自牧斎の「時彦金石文集」にあるとのことである。ちなみに後甲板にもパーティー終了間際にペリー自身が登場したとのことで、鰐水も直接ペリーを目にしている…

江木姉妹小伝(49)

林大学頭以下幕府高官達はペリー提督の船室にて直々にもてなされたが、その他約60人の日本人達は後部甲板に設えられた宴席にてもてなされることとなった。このパーティの様子は米国側の記録に基づけば次のようになる。提督は、日本人にアメリカ風のもてなし…

江木姉妹小伝(48)

幕末動乱時、福山藩主阿部正弘は幕府筆頭老中となっており、ペリーの黒船来航に対応し、日米和親条約を締結するなど活躍したが、これが幕末の攘夷運動に火を点けたとも言える。正弘自身は安政4年(1857)に39歳で急逝しているが、ともかく福山藩は当然佐幕派で…

江木姉妹小伝(47)

鰐水は当初医学を志していたが、文政11年(1828)小寺葵園の塾で関藤藤陰と会ったころより儒学に傾倒し、妻と死別したこともきっかけになったか、医を捨て、天保元年(1830)京都の頼山陽に師事することとなった。頼山陽は幕末における尊王攘夷派の思想的背景と…

江木姉妹小伝(46)

江木定男の祖父、保男の父親は幕末備後福山藩の儒学者江木鰐水である。福山藩における尊皇開国派の急先鋒であったらしい。生まれは文化7年(1810)、安芸国豊田郡戸野村(現在は東広島市河内町戸野)の割庄屋、福原与曽八(号、貞章)の第三子として生まれてい…

こんにちはお元気ですか?

わたしもいろいろありますがなんとか生きております。と、いうわけで江木です。なんでこんなに間が開いたのかというとですね、次に登場するのは江木鰐水という人なのですが、この人の日記が刊行されておりまして、それを読んでから続きを書こうと思った訳で…