江木姉妹小伝(46)

 江木定男の祖父、保男の父親は幕末備後福山藩の儒学者江木鰐水である。福山藩における尊皇開国派の急先鋒であったらしい。生まれは文化7年(1810)、安芸国豊田郡戸野村(現在は東広島市河内町戸野)の割庄屋、福原与曽八(号、貞章)の第三子として生まれている。通称は始め健哉、のちに繁太郎。母親は備後福山藩の沼隈郡山手村(現在の広島県福山市山手町)の医師、藤井玄好の娘、繁である。藤井家は藤井高尚が跡を継いでおり、その子第二郎共々江木鰐水と交流があった。父福原与曽八とその兄が寛政3年(1791)に藩侯から孝子として表彰されている。
 しかし鰐水少年がまだ健哉と呼ばれていた文化12年(1815)、父福原与曽八が亡くなる。鰐水はまだ6歳であり、父親の記憶はほとんど持っていない。福原家の庄屋は長兄が次いだが、若い鰐水は兄などに就いて四書五経などを修めていたようである。医者の家系である母方藤井家の影響で、若い頃は医者を志した。文政6年(1823)14歳の時に、藤井家の知人である福山藩医、五十川義路(菽斎)に師事することになり、福山藩に移り義路の家に寄寓しながら医を学ぶ。その後、五十川家の親戚に当たる江木玄朴の家系が絶えていたため、文政12年(1829)、義路の娘道(のち政と改名)と結婚し、江木姓を継ぐことになる。江木家は前の福山藩主水野家の医官であるが、その娘が五十川義路の曾祖父に嫁いで以来家系が絶えていたのである。ただし江木玄朴の没年は延宝4年(1676)のことであり、鰐水が江木家を再興したのは実に153年ぶりということである。つまりこれは江木家再興が目的ではなく、鰐水を見込んだ義路が、福山藩に仕官させるために使った方便かもしれない。
 天保元年(1830)一歳年下の妻政が亡くなり、福山実相寺の江木家のお墓に葬られる。二人の間に子はなかったようだ。後妻には五十川義路(菽斎)の子、義集(簑州)の二女亀(のちに敏)が嫁ぐことになる。亀は文政7年生まれ、鰐水の15歳年下である。