江木姉妹小伝(47)

鰐水は当初医学を志していたが、文政11年(1828)小寺葵園の塾で関藤藤陰と会ったころより儒学に傾倒し、妻と死別したこともきっかけになったか、医を捨て、天保元年(1830)京都の頼山陽に師事することとなった。頼山陽は幕末における尊王攘夷派の思想的背景となった『日本外史』を著した文人である。頼山陽最晩年の弟子であり、彼の名「晋」、字「晋戈」は頼山陽命名してもらったものであり、その命名書が今でも福山館に残されている。天保3年(1832)に山陽が没して後、天保12年(1841)に編まれた『山陽遺稿』に鰐水は『山陽先生行状記』を寄せたが、その内容につき兄弟子森田節斎との論争が起きたことにより、世間に名が知られるようになった。

江木鰐水には日記が多く残されており、古くは天保3年(1832)のものから刊行されている。若かりし鰐水が(23歳)師匠や同門の仲間とたちと共にのびのびと勉強にいそしんでいる様子が見える。天保年間などは世間的には天保の大飢饉の最中ではあるが、まだ幕末の不穏な空気も察せられず、鰐水にとって充実した、また、楽しい時代であったかのように見える。紫宸殿(京都御所)で舞楽を見、伏見神社に詣で、伊勢神宮に参拝し、壬生狂言を見て、頼山陽に従って大仏を見て下鴨神社糺の森に遊ぶ。時に師匠に教えを受ける。しかし天保3年(1832)6月1日、頼山陽が吐血したころより運命の風向きが変わってくる。8月29日養父五十川義路が病に伏せ、天保4年9月23日には頼山陽卒す。頼山陽が没すると京都を離れ大阪へ行き、頼山陽と交友のあった篠崎小竹に従学、天保8年(1837)江戸に出て儒学を古賀とう庵、長沼流兵学を清水赤城について修める。
同年、開明的な藩主として有名な福山藩の阿部正弘に抜擢され、藩校弘道館の講書に招かれ、天保12年(1841)8月17日正式に福山藩の儒官となっている(十人扶持御儒者大目付触流)。幕末に至り、英米仏露の異人船が日本界隈に出没するようになると、弘化3年(1846)11月21日蘭学御用に任用。この頃より長沼流軍学の時代遅れを悟り、西洋兵法を学び始めることにより、藩内でも軍事面での意見を求められるようになる。