江木姉妹小伝(48)

幕末動乱時、福山藩主阿部正弘は幕府筆頭老中となっており、ペリーの黒船来航に対応し、日米和親条約を締結するなど活躍したが、これが幕末の攘夷運動に火を点けたとも言える。正弘自身は安政4年(1857)に39歳で急逝しているが、ともかく福山藩は当然佐幕派であったのだ。しかし藩内の意見が攘夷を主張しているにもかかわらず、彼ひとりその非を唱え、尊皇開国を主張したらしい。
嘉永6年(1853)6月3日、ペリー提督が率いるサスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号の4隻による米国艦隊が浦賀沖に来航。国内は黒船を迎えての大騒ぎとなる。この時は浦賀奉行がペリーと会見して国書を受け取り、翌年に回答するということで一旦ペリーを追い返すことに成功する。この事件により幕府は混乱の極みを見せ、また国内に攘夷思想が沸き立つ。鰐水はこの時福山在であり、錯綜してはいるものの情報収集に努めており、早くも時勢の変化を察している。

浦賀ノコト紛々 実説ト思ウ所供覧 六月三日異船四艘共和政治所コロンヒヤノ船カ 一船箭ノ如ク江戸海ニ入リ金川沖ニ止リタリ 一一日四艘トモ江戸海ニ乗込ミ大師河原沖ニ至ル 一三日出帆本牧細川・佃島黒田皆火消装束 品川上陸ナレバ小大名マデ皆登城 浦賀ニテ戦トナレバ若年寄・老中皆出陣ノヨシ 石川和介ヨリ一書ナク不明 主人海防掛リ且ツ首相 臣子ノ心配オ察シ願ウ 願ノ趣ハ互市カ八丈島借用トカ一向不明 土州人漂海記御返却乞ウ
嘉永6年月7日付阪谷朗廬宛鰐水繁太郎書翰】

直接会っていないにせよ、開国を迫るペリー提督に対するのは筆頭老中である藩主阿部正弘であり、江木鰐水もまた黒船対応のために12月19日江戸出府を命ぜられ江戸表奥勤となる。しかし鰐水が江戸に到着する前の嘉永7年(1854)1月14日、早くもペリーが米国艦隊7隻を率いて浦賀に来航する。到着早々鰐水は2月25日、使節ペリーとの応接状況を視察するために横浜へ派遣される。だが実はこの時、鰐水は密かに黒船に乗り込んでいるらしい。2008年9月新聞各紙に次のような記事が出ている。江木鰐水と関藤藤陰が江戸町奉行の家来に身分を偽ってペリーが乗船するポーハタン号に乗り込み、米国側が開いた宴席に出席したとのことである。この日嘉永7年2月29日(西洋暦1954年3月27日)、日米和親条約締結の目処が立ったペリー提督は、日本側の交渉担当役人達をポーハタン号に招き、大規模なパーティを開催している。