2009-11-01から1ヶ月間の記事一覧

つづく。

と、いうわけで<江木鰐水編>終わりです。ご静聴ありがとうございました。ちなみに鰐水古希祝いは、日本歴史上初の立食パーティーとして記録されていたりします。しかしまあ、モノ書くのも久しぶりなんで調子がでませんな。思ったより長くなりすぎだし。ま…

江木姉妹小伝(60)

そうして旧士族による反乱が各地で噴き出ることになる。明治7年佐賀の乱、明治9年熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、長州萩の乱、そして明治10年(1877)には遂に薩摩の西郷隆盛が下野し、西南戦争が勃発する。 江木鰐水は福山にあってこれらの騒動には参加してい…

江木姉妹小伝(59)

満を持した新政府軍は明治2年(1869)4月9日早朝、山田顕義率いる兵1,500人が乙部に上陸し函館を目指した。しかしこの戦いに江木鰐水は参加しておらず、青森に居残りとなっている。理由は不明だが、青森において函館戦争の実記や報告書、建言書などを多数書い…

江木姉妹小伝(58)

つまり、鰐水が五稜郭に向かったところ、大総督はとっくに五稜郭を放棄して函館に引き払っており、五稜郭は旧幕軍に占領されているという。驚いた鰐水は函館に急ぐが、兵隊も消え失せている。宿屋に聞いたところ、新政府軍はとうの昔に船で青森に撤退しよう…

江木姉妹小伝(57)

一人に遇ふ。余の手を挽きて、回して之が曰く、「銃声を聞く進むべからず」と。余謝し、要緊の事にて、五稜郭に赴く。銃声は未だ留るべからず。亦五・六丁を進む。津軽藩士の五・六人も亦余を留めて曰く、「大総督(清水谷公)、昨夜函館に帰りて、郭中に官…

江木姉妹小伝(56)

さてこの敗走を受けて新政府軍は戦陣を立て直し、江木鰐水は岡田総督と共に福山藩の一部を率いて函館を発し、24日早朝、大野村に布陣する。兵に朝飯を取らせた後に配陣しようとした矢先、敵襲の報を受ける。ちなみに大野村を攻撃するのは幕軍歩兵奉行大鳥圭…

江木姉妹小伝(55)

慶応4年(1868)4月11日には江戸城は無血開城しており、徳川家は謹慎となる。しかし恭順に従わない幕臣や新撰組などの幕軍残党たちは戊申戦争を追って北に向かう。幕府海軍副総裁榎本武揚は軍艦を引き連れてそのまま北海道に逃亡しており、この時榎本武揚率い…

江木姉妹小伝(54)

これより後福山藩は官軍して戊辰戦争を戦っていくことになるが、旧幕藩への仕打ちは過酷を極め、まずは伊予国松山、次いで播磨国西宮、大阪府天保山と新政府より立て続けに出兵を命じられる。そして明治元(1868)年9月7日、会津鶴ヶ城下で関場春武が壮絶な最…

江木姉妹小伝(53)

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還、同年12月9日の王政復古の大号令、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦を経て薩長土肥などの反幕軍が官軍となり、幼い明治天皇を擁した官軍により倒幕令が出される。幕軍の福山藩は敵の来襲に備え、鰐水は福山城小丸山砲台胸壁修築…

江木姉妹小伝(52)

鰐水は先代正弘の頃より藩に重用されていたが、阿部正教にも江戸に呼ばれ、以降藩中枢に近い所で活躍している。文久年間に入り、鰐水日記の記述も幕末の殺伐とした情報へと変わっていく。文久2年(1862)5月には「幕威は既に虚威」であるとの記述が見える。そ…