江木姉妹小伝(54)

これより後福山藩は官軍して戊辰戦争を戦っていくことになるが、旧幕藩への仕打ちは過酷を極め、まずは伊予国松山、次いで播磨国西宮、大阪府天保山と新政府より立て続けに出兵を命じられる。そして明治元(1868)年9月7日、会津鶴ヶ城下で関場春武が壮絶な最期を遂げた翌日、福山藩は榎本武揚が立て籠もる蝦夷箱館戦争(北海道函館市)への出兵が命じられる。鰐水は9月19日軍事参謀に命ぜられてこの戦いに参加している。後に『北征記行』として纏めており、これについては福山城博物館友の会刊『函館戦争に於ける福山藩』に抄録されているので、それを拾い読みしてみよう。福山軍は岡田伊右衛門を総督とする650人が函館守備を命じられで出軍する。

明治元年戊申の秋、我が藩箱館府戌兵の命を受く。又改めて奥州弘前藩の援軍を命ぜらる。予州宇和島越前大野の二藩も、亦同じく命を受く。宇和島の兵、別艦に乗りて発す。我が藩と大野藩と、英艦に同乗す。
 艦は天朝の給ふ所なり。此の行、兵艦・糧食の諸費は、皆太政官より優給せらる。
(中略)
 廿日朝、十小隊を以て一大隊と為し、次第を以て城門を発す。蓋し我が藩西洋銃を用ふと雖も、長沼流と混ず。純乎として西洋法を用ひしは、今年正月以来なり。正月の変(福山城包囲)後、執政・典客・諸有司憤発し、軍制を改革し、兵隊を操練す。又民兵を招集せり。数月の際に、国勢大いに変る。此に於て兵を出し、先づ鞆の浦に至りて、英艦の至るを待ち、又日々兵隊を練る。一日祇園の祠に詣で、戦勝を祈る。諸兵隊随ふ。威儀観るべしと云ふ。
【北征記行/江木鰐水】

 意気揚々とした出発風景だが、鰐水は10月1日に鞆の浦に停泊中の英艦モーナ号に向かっている。鞆の浦を2日に出発したモーナ号は馬関(関門海峡)を抜け長崎で弾薬を補給、日本海を北上する。「風濤は益々暴れ、浪華船頭を洗ひ、怒波船窓に入りて、満船舟暈(註:船酔い)を患ふ」日本海の荒波にもまれながら、敦賀、新潟粟島、秋田土崎港、舟川港(男鹿)と北上、15日会津藩降伏の報を聞いた後、20日九ツ(昼12時)頃に箱館港に着く。函館は既に雪模様であり、瀬戸内生まれの彼らには寒気の厳しい季節であった。