江木姉妹小伝(55)

 慶応4年(1868)4月11日には江戸城無血開城しており、徳川家は謹慎となる。しかし恭順に従わない幕臣新撰組などの幕軍残党たちは戊申戦争を追って北に向かう。幕府海軍副総裁榎本武揚は軍艦を引き連れてそのまま北海道に逃亡しており、この時榎本武揚率いる旧幕海軍、戊辰戦争で敗れた会津藩士や仙台藩士などの一統、彰義隊の生き残り、新撰組土方歳三幕府軍事顧問であったフランス人ブリュネなどが集結しており、10月21日鷲ノ木(現在の森町)に上陸したばかりであった。榎本軍はすぐさま30人ばかりで函館に向け進軍するが、対する新政府側には函館府兵・松前藩兵に到着したばかりの福山藩、越前大野藩を加え、更に急遽派遣された津軽藩兵を加えた陣容が峠下(現在の七飯町)、大野(現在の大野町)、川汲峠(現在の函館市)に布陣していた。福山藩兵本隊は五稜郭を中心に守り、大林壮作の一小隊を尻沢辺りに送り出している。そして榎本軍先遣隊と新政府軍は翌22日峠下にて新政府軍に夜襲をしかけ、北海道に於ける戦いの戦端を開くことになる。

 午後、青木軍監と大林壮作と、清水谷公の命を奉り、鷹勁隊を以て、大野口に赴く。蓋し津軽兵は機に遅れ、未だ嶺の先を扼へざるに、賊兵既に嶺を越え、峠下駅に屯す。駅亦た要地にて、三面山が囲み、一坂路のい通ず。路の左右、沼地は阻を為す。古昔、土豪某嘗て之に拠りし地形此の如し。故に賊は先んじて之に拠る。賊は地形に熟るること、此の如し。津軽兵は進むを得ず。函府吏督責して、二十二日夜半進撃す。賊小兵を出し偽り走る(逃亡する)。追ひて去るも、坂路に至り伏するに遇ふ。賊兵下りて撃てば、即ち敗走す。敗聞の至りて、府議は賊兵の嶺下に多集せざるに乗じて之を復せんと欲するに、茅部嶺路を扼へしむることを以てす。故に援兵を命ずるなり。
 鷹勁隊時に尻沢辺を守る。申牌(16時)発す。途に津軽兵の遠く去るを聞く。大野駅に兵無かりければ、乃ち壁立村松前陣屋を過ぎり、其の兵を催(うなが)す。銃隊無く、槍兵二十人有り。且つ倶に大野駅に到る。敵兵既に二十丁外に在り。岡阜に上りて、兵隊桀土(ケット=毛布)を蒙(おほ)へば其の色を弁ずべし。大野藩の兵隊亦た至ると雖も、津軽兵は退きて一本木に在り。兵少く進撃すること能はざるなり。
【北征記行/江木鰐水】

と、いうわけで新政府軍は初戦勝利を飾ることはできなかった。