江木姉妹小伝(53)

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還、同年12月9日の王政復古の大号令、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦を経て薩長土肥などの反幕軍が官軍となり、幼い明治天皇を擁した官軍により倒幕令が出される。幕軍の福山藩は敵の来襲に備え、鰐水は福山城小丸山砲台胸壁修築掛に任命され正月8日に入城する。しかし早くも翌日9日には福山城は杉孫七郎率いる長州軍に包囲されることとなる。実は福山藩主阿部正方は前年大政奉還直後の慶応3年11月23日に死亡していたのであるが、その死は藩内で厳重に秘されていた。その中で官軍に包囲された福山藩では態度を一変、関藤藤陰が中心となって恭順に藩論をまとめ、安芸広島藩浅野長勲実弟を藩主とすることを条件に、一発も発砲することなく、福山藩の恭順が認められることとなった。

是ヨリ先旧臘ヨリ長藩の兵隊、福山ヲ去ル五里、芸藩封境尾道駅ニ屯集シ、梢々人千四百計ニ及ビ、是上国ノ形成ニ由リ進退ヲ決スノ巷説アリ。而シテ去ル三日、上国伏見辺戦争事起リ、既ニ仁和寺宮、坂兵追討大将軍ニ任セラレ、錦旗ヲ搴ラレ伏見マテ出張在セラル云々、風聞頻リニ確報ヲ渇望、一藩上下恐敬苦心ノ折柄、正月八日朝右屯集ノ長藩兵、今午刻后出発、備前片上駅ニ通行云々ノ、宿駅前途先触ヲ発ス。故ニ彼ノ上国ノ異変ニ就テ進軍ノ事ト推知スル処、豈科ンヤ同夕ニ至リ、右兵隊俄ニ吾ガ治城福山ヲ襲フ軍令ヲ発セシ注報アリ、偶実ハ一藩国喪中ニ当リ、悲哀憂苦ニ堪ズト雖トモ、無名師、卒然足下ニ襲来セハ、不得已城ト共ニ存亡ヲ期シ血戦セザルヲ得ズ。然リト雖トモ、上国ノ風評ヲ以テ察スレハ、即チ王師ニモヤ有ン。若シ然ラハ、是ト接戦スル寸ハ、忽チ徒ラニ朝敵ノ汚名ヲ万世ニ受ケ、徳川家ニ対スルモ、亦恐懼不義ニ陥ン、不如其、襲来ノ旨意、飽迄問尋応接ノ後、唯大義名分ノ帰スル所ニ>従ン。其旨意、未タ分明ナラサル際ハ、縦令攻城、発砲ニ及ブモ、我レ決シテ無名ノ接戦ニ及ブベカラザルト決議。一藩人数城内ニ備エ、各道ニ応接ノ士ヲ出ス。其ノ応接未タ面晤ヲ得ス。而シテ翌九日黎明ヨリ、長藩兵隊城下に近ツキ、左ノ戦書を投ズ。
  (あんたの藩は朝敵だから、勤王諸藩で攻撃するからご用心、という内容)
右戦書達スルヤ否、直チニ西・南・北ノ三方取囲ミ、西・南ノ兵隊ヨリ朝卯中刻ニ及フ、北モ頻リニ大砲・小砲ヲ乱発スル数時。然レドモ城中厳命ヲ守リ、一発モ応砲セズ。
【阿部家文書「戊申記事・明治元年」】