江木姉妹小伝(52)

 鰐水は先代正弘の頃より藩に重用されていたが、阿部正教にも江戸に呼ばれ、以降藩中枢に近い所で活躍している。文久年間に入り、鰐水日記の記述も幕末の殺伐とした情報へと変わっていく。文久2年(1862)5月には「幕威は既に虚威」であるとの記述が見える。そして翌3年8月の堺町門の変(八月十八日の政変)により長州藩が失脚、岩国藩士江木仙右衛門は七卿と共に都落ちする。そして元治元年(1864)7月長州藩攘夷派が藩主の赦免などを求めて京都に押し入ると(禁門の変)、禁裏に発砲した長州藩は朝敵となり、ついに8月2日幕府による長州藩征討が布告される(第一次長州征伐)。福山藩も当然幕軍に参加し、6000人の藩兵を率いて広島に進軍する。鰐水も息子健吉と共に従軍し、鰐水は藩主阿部正方に従って安芸に向かうが、長州藩が俗論派に主導権を握られ、責任者の切腹と共に第一次征長はうやむやに終わるため、鰐水は戦火も交えず10日ほどで福山に帰藩している。江木仙右衛門が徳山に向かった元治元年(1864)大晦日は、藩命による大阪行の帰途であり、兵庫へ向かう船中であった。

 翌慶応元年(1865)の第二次長州征討では福山藩は浜田藩と共に先鋒を勤め、石州口(島根側)に進軍する。鰐水もまた参謀として従軍している。慶応2年(1866)6月17日には石見国益田において大村益次郎率いる長州軍と交戦、これに敗走する。福山藩にとっては島原の乱以来230年ぶりの戦争であった。ちなみに江木千之が泣きながら従軍していた岩国藩は芸州口に出陣しており、福山藩との交戦はない。