江木姉妹小伝(58)

つまり、鰐水が五稜郭に向かったところ、大総督はとっくに五稜郭を放棄して函館に引き払っており、五稜郭は旧幕軍に占領されているという。驚いた鰐水は函館に急ぐが、兵隊も消え失せている。宿屋に聞いたところ、新政府軍はとうの昔に船で青森に撤退しようとしているという。鰐水が急いで浜辺に走ると、既にハシゴも上げて出発寸前。鰐水に気付いた岡田総督が大縄を投げてくれたので乗船できたものの、昨日五稜郭を厳守すると決めた舌の根も乾かぬ内に「五稜郭には水もなし守るのは厳しい。ここは一旦青森に帰って体勢をを立て直そう」と決まり、さっさと兵を引き上げようとしている途中だったというのである。
 青森に着いたものの鰐水は納得できず、飯も喉に通らない。前日までは函館で死まで覚悟しておきながら、安穏と青森に引き上げることの心苦しさが見えるが、結局は無理に函館で防衛戦を行ったとしても、榎本軍3,000名に対し新政府軍は福山・大野藩の650名足らず。圧倒的な兵力不足と準備不足は否めず、自らを慰めることになる。旧幕軍は10月26日五稜郭に無血入城、11月5日松前藩松前城を陥落、11月20日までには蝦夷地を平定する。こうして函館における前哨戦は幕を閉じたのである。
 旧幕軍は年の暮明治元年(1868)12月蝦夷共和国樹立を宣言、日本初の選挙により榎本武揚が初代(そして唯一人の)総裁となった。新政府軍は巻き返しを図るべく清水谷公考を青森口総督に任命、陸軍では全国より7,000名の兵を掻き集め、海軍では米国より最新鋭の装甲艦(甲鉄艦)を購入し、翌春明治2年(1869)蝦夷地征討を期する。
 北海道共和国軍では前年11月、悪天候により新鋭艦開陽丸と神速丸を失い、自慢の海軍力が大きく低下していた。共和国軍では新政府軍の甲鉄艦を奪うべく3月23日宮古湾海戦を仕掛けるが敗北、更に軍船一艘を失う。