江木姉妹小伝(59)

 満を持した新政府軍は明治2年(1869)4月9日早朝、山田顕義率いる兵1,500人が乙部に上陸し函館を目指した。しかしこの戦いに江木鰐水は参加しておらず、青森に居残りとなっている。理由は不明だが、青森において函館戦争の実記や報告書、建言書などを多数書いている。鰐水はこの年還暦を迎えており、そのせいもあったかもしれない。ともかく新政府軍は次々と援軍を投入、共和国軍も兵数を逆転され、元新撰組土方歳三などの奮戦もあったが、5月18日遂に降伏、五稜郭を開城、共和国軍は武装解除する。ここにおいて日本の歴史上唯一の共和国は霧散することになる。江木鰐水は戦いの終わった函館で藩兵に合流し、5月25日英国船にて函館を発ち、福山に凱旋する。こうして福山藩にとっても鰐水にとっても幕末は終わりを迎えたのであった。

 明治の世になり、時代の寵児となった旧田舎侍たちは退去して東京を目指し、続々と政府・官僚になっていく。それなりに有能であった幕府官僚を一掃し人材が払底していたこともその背景にある。関新平・清英も江木千之・翼もその流れに乗っている。鰐水にも新政府から大学講師に招きがあったようだが、それを固辞し、福山のために尽くす道を選ぶ。明治2年(1869)、鰐水還暦の歳である。
 明治2年(1869)6月17日版籍奉還により中央集権が成り、明治4年(1871)7月14日には廃藩置県により福山藩を含め、旧来の幕藩体制、ひいては藩主と藩に忠誠を尽くす藩士たち武家社会という関係は消滅する。特権階級であった武士階級はこれまで藩、のちには明治政府を通じて家禄を受けていたが、ここに至って一時金や公債を渡されることで家禄を廃され、この後は自ら生活費を稼がなければならなくなった。これまで武術と藩務による官僚技術しか持っていない彼らが、武家の商法と云われるように、商人や農民に互して商業や農業で生活を立てられる訳もなく、また、これまで士農工商として支配階級であることが当たり前であった彼らにとって、四民平等政策は新しい支配階級(明治政府)による裏切りとさえ見えた。旧幕府側はもちろんのこと、維新に命を張って邁進したはずの自分が禄を巻き上げられ、世間に放置されたことで、旧官軍側でも不満を募らせる旧武士が多くいた。