江木姉妹小伝(60)

そうして旧士族による反乱が各地で噴き出ることになる。明治7年佐賀の乱明治9年熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、長州萩の乱、そして明治10年(1877)には遂に薩摩の西郷隆盛が下野し、西南戦争が勃発する。

 江木鰐水は福山にあってこれらの騒動には参加していない。それよりもその背景にある藩士たちの救済が急務であることを悟り、士族授産に骨を折っている。明治時代になってから鰐水が尽力したのは福山の治水・水利事業と、養蚕事業の普及であり、福山城小丸山に桑を植え、養蚕を奨励する。治水事業については、そのあまりもの熱中様に周囲から「水狂い」とまで陰口を叩かれたという。その一方嗣子健吉が明治4年(1871)に病没、明治6年(1873)には頼山陽塾以来の先輩門田朴斎が没。同年甥であり交流の深かった五十川基が死亡。明治9年(1876)には関藤藤陰没と、交流ある人々との別れが続く。明治10年(1877)には息子たちのいる東京に移住。浅草井生村楼で古希祝を済ませた翌明治13(1880)年には、嗣子四男高遠が留学先の米国で客死したとの報を聞く。幕末の動乱を経て平和な時代を迎えたはずであるのにもかかわらず、老齢の鰐水には悲報が続いている。そして江木繁太郎鰐水は翌明治14年(1881)10月8日、東京にて病没する。東京谷中天王寺に葬られた。数え72才の大往生であった。谷中霊園に墓が残されている他、福山城明治27年(1894)に建立された遺徳碑が残されている。
 江木鰐水と先妻道(のち政)の間に子はなかったが、後妻亀(年または敏)との間には7男授かっている。長男次男(長男は名不詳、次男は千之という)は若くして没し、三男健吉、四男高遠、五男保男、六男松四郎、七男信五郎である。彼らは明治の時代の中でそれぞれ活躍していくことになる。

<つづく>