江木姉妹小伝(57)

 一人に遇ふ。余の手を挽きて、回して之が曰く、「銃声を聞く進むべからず」と。余謝し、要緊の事にて、五稜郭に赴く。銃声は未だ留るべからず。亦五・六丁を進む。津軽藩士の五・六人も亦余を留めて曰く、「大総督(清水谷公)、昨夜函館に帰りて、郭中に官軍無く、賊既に之に依れり。僕等は守りに入らんと欲して、橋外に到れば、郭上より銃を発ちたり。大呼して曰く、『津軽の兵隊守りに入らんと欲す』と。又銃を発てば、乃ち還るなり」と。予は之を聞きて、驚駭し倶に還る。
 函館に入り、市人の出でて観るに、夷然として驚かざる者有り。負担して立つ者有り。南部陣屋に到れば、我が兵隊在らざるなり。東本願寺(荷役)を問へば、一人だに見えず。弁天砲台を問へば、一人の在る無し。益々驚怪す。
 以為へらく(おもへらく)、函館を守らんと欲して、南部陣屋・弁天砲台を守らずそて、何れの地を守らんと欲すと。路に土著の吏(地元民)に遇ふや、余を見て狼狽し、目は笑い得意の色有り。蓋し此等が内応して賊を導きしなり。
 遂に逆旅(宿屋)の長崎屋に帰れば、曰く、「総督以下、皆船に乗り去らんと欲す。速に船に登らずんば、恐くは後れん」と。走りて海浜に出づれば、兵隊皆一夷艦(陽春丸)に在り。小艇を雇ひ之に赴く。既に梯子を釣り上げて、上がるべからず。岡田総督、余の来るを見て、大いに喜び、大縄を垂らしければ、攀ぢて艦に入る。山岡・大林の二監督皆在りて、相見て、恙無きを賀すと雖も、事意表に出づれば、心は揺々として定らず。
 蓋し昨二十四日申牌(十六時)、晋(鰐水)は五稜郭に在りて、死守の議を決し、弁天崎砲台の兵尽く五稜郭に入れんとす。議は驟(にわか)に変じて、曰く、「郭中に水無く、守るべからず。暫く青森港に避け、再び王師を整へ、恢復を行(な)さん」と。此を万全の方策と為す。多く兵士を殺すは、無為なり。夜半既に航海す。而して我が兵隊も之に従ひて去る。副督も又倶に去る。留る者は、山岡源左衛門・前田藤九郎のみ。
【北征記行/江木鰐水】