江木姉妹小伝(63)

 元治元年(1864)10月31日、第一次長長州征伐において健吉は18歳にして鰐水に先立ち出陣、出発前には父母に告別し、弟たちを集めて訓戒し、詩を賦した上で死を決し出立するが、先述の如く交戦する間もなく長州軍が謝罪することで戦闘は回避される。

  嗟矣無謀奏奇功
  聊抛一死報吾公
  他時収骨題何字
  鉄石忠肝臣順通
  【江木健吉の詩/江木鰐水明治四未日記二より】

続いて起こった第二次長州征伐にも父子共々出陣、健吉は熱射病に罹った父鰐水を助け、鰐水を喜ばせる。慶応3年(1867)秋、時勢の急変を受け、健吉は鰐水に洋学を学ぶ許可を求めるが、福山にも過激な攘夷派が跋扈しており、鰐水は「俗士の憎悪を受けることを慮り」それを許さない。三日三晩の議論の末、夜間のみの学習を許される。慶応4年(明治元年1868)1月福山城が長州軍に包囲された際には敵情探索の命を受けて出陣している。
 官軍に鞍替えした秋には官の許可を得て長崎に出、フルベッキ門下で猛勉強する。その無理が祟ったのか、8月に健吉は肺病を病み吐血するが、この時はオランダ人海軍軍医マンスフェルトの治療を受けて死境を脱す。明治2年春には東京遊学の官命を受けるが、体調が回復していないため、暫く福山で療養につく。その後体調も回復したことから、明治3年(1870)秋には大阪に遊学に出たが、そこで病が再発する。明治4年(1871)8月10日、大阪において健吉吐血すの報が鰐水の元に届く。母親の敏が帰省を促すため船に乗り大阪へ急ぐ。しかしこの時、解放令反対一揆尾道より広島全土に拡がっている時期にあたり、健吉と母は福山に帰るに帰れなくなってしまう。しかし健吉は死を決して乗船、10月10日鞆の浦で鰐水に迎えられ、福山に帰宅する。自宅において母の手厚い看護を受けるが、10月16日に容態が急変、翌日明治4年(1871)8月17日、鰐水が「余最も之を愛す」と記した息子、江木健吉が永眠する。維新が成り、これから拡がる新しい世界を見ることもなかった、健吉26年の人生であった。葬儀は健吉の遺志により神式で行われた。

<つづく>