江木姉妹小伝(50)

 江木鰐水もまた、この洋食にがっついていたひとりなのである。中国人通訳と筆談を交わした記録が菅自牧斎の「時彦金石文集」にあるとのことである。ちなみに後甲板にもパーティー終了間際にペリー自身が登場したとのことで、鰐水も直接ペリーを目にしていることになる。鰐水自身についていえば、その時のことを記したと思われる書簡が国会図書館に残されている。

扨小生モ御道中浜松ニテ、異船八艘神奈川沖エ乗込候事承り、道中相急、卓介(註:五十川訊堂)江ハ路々職□僕壱馬ニテ駆付候共、大井川二日河留ニテ、廿六日夜江戸入候処、江戸ハ殊之外静ニテ平日ニ替り候模様モ無之、雖も廟堂ニ出レハ頗ル議論有候事と相見え御老中御登城ハ、夜ニ入候。被入候事度々多クハ□しく及候。小生モ着後誠ニ忙敷、千偖万端嘆息之事而已。(中略)乍去極内ニテ異船ニ上り蒸気船ヲ此日奇観、此船ニ乗阿墨俄(註:アメリカ)羅斯(註:ロシア)エ行ハ奇妙と又夜興ヲ発申候。古賀先生も御健固ニ御帰り、不相変西学研究色々申上度候得共、先ハ此度の大概外ノ異船エ乗込候一件ハ、追テ糸井より可差上候間、御許し可被成、其節使節ペルリの似顔絵御目ニかけ申候。此度の結局ハ交易ハ許サズ四五年さきニ而返答、薪水石炭漂民撫恤ヲ許シ候処モ、処々エ立寄ハ困ル故、下田港松前箱館ト両処ニ極メ候也。ケ様無之テハ御仁徳ニモ係り候ナドト立派ナレドモ、其実ハ可勝之策なきより起り候ナリ。此処至憂之所在、以後之情体ハ真兄ナド高踏申ニテ傍観、僕等未知税駕之処御憐察可被下候。此手紙他見ハ御無用也。心易き人ニハ小生之名ヲ不出、江戸朋友より聞トシテ御咄被下度非是。(略)
安政元年3月27日付阪谷希八郎(朗廬)宛鰐水繁太郎書翰】

鰐水は後甲板に設けられた宴席の方に出席したものと思われるが、鰐水が熱心に写生したペリーの似顔絵やその他日本人の写生癖は、図らずも米国側に「日本人は巧くもない似顔絵や写生を盛んにする」と揶揄させることになる。
同年3月3日、ペリー一行は横浜に上陸。その強引な手段により徳川幕府鎖国体制は終焉を迎え、阿部正弘により日米和親条約が結ばれ、5月25日には下田条約が締結される。ちなみに鰐水が阪谷朗廬に手紙を書いた3月27日には、吉田松陰が密かに小舟で黒船に乗り寄せ、密航を企てるが、米国側に乗船を断られるという事件が起きている。ここにおいて閏7月19日、鰐水は役を免ぜられ、福山へ帰国する。