江木姉妹小伝(61)

 江木鰐水が初めて子を授かったのは天保13年(1842)3月12日のことである。しかしこの男の子は名を付ける間もなく、翌日に夭折している。鰐水33歳、妻の敏は文政7年(1824)生まれであるため、数え19歳ということになる。先妻の政は天保元年(1830)に20歳で亡くなっているため、敏と再婚したのはその後間もなくのことと思われるが、残されている鰐水の日記には記載が見あたらない。
 次子が生まれたのは2年後の天保15年(弘化元年,1844)4月6日のことである。鰐水は三鹿齋日記巻三に次のように記している。

 天保十五年、甲辰、四月六日、婦挙一男児、此日館(註:藩校弘道館
 中温習、晋(註:鰐水)直館中、午牌帰家喫飯、及出、祖母曰、温習畢、
 当直帰、不得他過、阿亀(註:妻の敏)微覚腹痛、恐分娩之期近也、暮
 帰、婦横臥在席、乃為設臥褥、曰、喫飯就褥、周兄(註:五十嵐修敬)
 適至、為按其腹、陣痛頻至、不能喫飯、乃使初蔵呼産婆、且告宗家
 (註:五十嵐家)、婦起上厠、漿水已破漏、還褥上不能坐、依儿俯首、
 産婆至、撤儿、産婆坐前、周兄坐後、使婦努力、再努力、児已生在地、
 発呱々之声、幸哉、挙一男子、胞衣共下、無災無害、宗家主母亦至、
 一家懼欣、実申牌半過之時也、分娩後、婦気色如平日、夜初更周兄以
 其平安欲帰家、余懐児在婦側、婦乍眩暈不省人事、如此者再、救之以
 薬、幸蘇醒、児雖身手長大、色白而不赤、白者多不育、令飲五香湯、
 飲之甚無気力、恐不育、右憂婦、左憂児、心如懸旗不定、情況非他人
 之所知也、夜半婦熟睡、至暁、児色亦赤漸発紅、呱々之声甚壮、糸井
 叔来視曰、是健強之児、何故患其弱、余心初降
 【三鹿齋日記/江木鰐水】

鰐水35歳、当時としては初子を得るには遅い方であると思われるが、出産に際して母は失神、子は血の気が無く、今度の子も育たないのではと心配しきりの様子が見える。この男児お七夜に千之(通称千之進)と名付けられる。江木衷兄の江木千之は嘉永6年(1853)生まれなので、元祖江木千之はこちらである。