江木姉妹小伝(9)

江木俊敬のお墓は、下関の西福院と山口二島朝日山にある。死後従五位を贈
られている。
俊敬の妻、千之と衷の母親についてはほとんど何も分かっていない。ただ東
京谷中墓地の千之の墓の隣に、明誓院江木夫人墓として葬られている。墓碑
銘があるが、漢文の素養がまるでないので俗名もよくわからないくらいなの
だが、字面から類推してみると、文政6年(1823)生まれで、俊敬の1歳年上に
あたる。長男千之は30歳過ぎての子ということになる。俊敬亡き後、窮乏し
ながらもつましく暮らし、苦労して子供二人を育てたようである。千之が東
京へ出て成功すると共に一緒に東京で暮らすようになったのだろう。栄子の
姑にあたる関係であるが、没年から見て会っている可能性はない。
明治29年(1896)胃を患い、いろいろな名医に診せるたが効なく、10月14日に
亡くなっている。享年74歳。千之は茨城県知事となっており、墓碑は同じ茨
城県の書記官渡部の手になっている。

江木千之は幼名を吉太郎といい、黒船が来航する2ヶ月前の嘉永6年(1853)4月
14日に生まれている。俊敬が30歳の時の長男であった。おそらく藩校の養老
館に通い、学問と武芸を学んでいる。

慶應二年(1866)、長州藩内の俗論派は高杉晋作奇兵隊により一掃され、再
び討幕派が藩を握ったが、幕府による長州征伐が開始される。幕軍が岩国藩
に迫ると、千之は父の意志を継ぎ、藩のために硝石製造など銃後の工作に奔
走したらしい。この戦いに幕軍は敗退し、大政奉還へと歴史は流れていくこ
とになる。
明治元年(1868)幕府が倒れて維新が成立すると、千之は裁判所に入って見習
書記となるが、明治3年(1870)藩に命じられて大阪へ出て大阪開成校に入り、
洋学者原田一道に師事する。一道は幕府の砲学専門家であったが、遣欧使節
池田筑後守一行に加わって渡欧、オランダ留学した後に帰朝し、その知識を
活かして新政府にも出仕していた。ここで千之は銃砲製造、数学、語学を学
ぶ。翌4年(1871)東京へ出て、早稲田蘭疇学校、開拓使学校(北大の前身)、
大学南校(開成学校の改称。つまり後の東大)、工部省修技黌、工部大学
(現東大工学部)に学び、その一方外人教官に就いて法律、経済、史学等を
修めた。

<続く>