江木姉妹小伝(10)

動乱時代は過ぎ去り、開国後の日本では、剣に代わって西洋の新しい知識が
立身のための武器となった。猛勉強して新しい知識を貪欲に吸収した千之は、
明治7年(1874)22歳の時に文部省に出仕する。十三等出仕というから大抜擢
されたわけではない。木戸孝允桂小五郎)が台湾出兵に反対して辞職した
直後であるが、なんらかの長州閥の人的繋がりがあったのかもしれない。
千之自身のちに、「東京に縁故のある者はツテを求めて郷里を後にした
が、ほとんどが官吏となった。」と言っている。それくらい長州の藩閥は強
かったということであるが、ともかく千之は省内で参事官まで出世する(明24)
この文部省時代に小学校教員心得、同教則綱領などの起稿に貢献したらしい。

明治25年(1892)内務省に転じて県治局長となり、日韓連合、帝国憲法草案、
占領地行政規則の起草など、少しキナ臭い仕事に携わる。
明治29年(1896)茨城県知事に選任。後、栃木・愛知・広島・熊本県知事を
歴任、明治37年(1904)には貴族院議員に勅撰されるなど、順調に出世を果た
す。
しかし40年(1907)大病を患って右足を切断。同時に熊本県知事を辞す。その
後は貴族院議員として活躍し「爾後議政壇上に謇々諤々の論陣を張り歴代内
閣の一苦手たり」(人名大事典)
大正13年(1924)、清浦奎吾内閣に文部大臣として入閣。同時に文政審議会を
創設して副総裁に就任するが、この内閣は5ヶ月という短命で瓦解する。
その後は枢密院顧問官となり、在任9年目の昭和7年(1932)8月、80歳で歿した。
これら政・官界と併行して、防長教育会、教育調査会、大東文化協会、皇典
講究所及び全国神職会、日本赤十字社などにも尽力した。
再び『人名大事典』の手放しの賛辞によれば、
 「資性英敏剛毅にして識見高邁、己れを持する質素謹厳、意を風教の維持
 に留めた。」

兄・千之が貴族院で内務畑の政治家、弟の衷は司法界出身の売っ子法律専門
家。栄子と衷の結婚当時、衷はすでに弁護士事務所を開設しており、千之は
茨城県知事を務めていた。これだけでも強力な家庭であるが、実はこの一族
にはもうひとり政治家がいる。衷の甥、というか、実は千之の婿養子なので
あるが、江木翼である。

<続く>