江木姉妹小伝(17)

それくらい豪勢な生活を送っていたということである。松崎天民の筆によると、

  淡路町時代の暮し向きは、明治末から大正の初頭へかけて、月々一千円の
  支払高に及んだと云われるほど豪贅なものだった。御者、馬丁、門下の弁
  護士、書生、女中等を合わせて、三十人に近い大家族だった。江木博士の
  富は、飛ぶように売れた『刑法各論』の謝礼のほかに、法曹唯一の権威と
  して、売れっ子としての収入も、並大抵の数字ではなかった。良人の慈愛
  に包容されて、間接にのみ世間を眺めて暮らした箱入奥様として、欣々女
  史は欲して得られぬ物なく、望んで遂げられぬ事と云っては、何一つもな
  かった。【松崎天民婦人公論昭和5年5月号】

松崎天民の見方は少し厳しすぎるかもしれない。大正時代に社会主義運動が盛んに
なって、下層社会に目を向けたいろいろな活動がなされるようになってはいたが、
それは有名ではあるがごく一部の運動であり、栄子の生活とその考え方は上層階級
としての平均的なものではなかったかと思われる。しかも栄子は子供時代にそれな
りに苦労を重ねた上に(幸運も手伝って)上流階級に入ったわけであり、その自負
はあったと思われる。また、明治期には「不幸な女」「苦労した女」がもてはやさ
れ、美人は「虚栄」「驕慢」「堕落」と見なされていたという。これは現在でも同
じかもしれないが。

栄子自身有名になるにつれ、雑誌等へも顔が載るようにになったが、自身も記事も
いくつか書くようになっていたようである。当時流行しつつあった女性解放運動に
も顔を出すようになり、平塚らいてうの『青鞜』や西川文子らの『新真婦人』など
に参加し、その雑誌にもなんどか寄稿している。しかしそれほど深く関わってはい
ないようだ。大正三代美人に数えられる林きむ子との交流もこの頃のことであり、
きむ子が参加していた女性活動「蛙声会」にも参加していた。きむ子はマスコミの
槍玉にあがって、あれこれ噂されるのを嫌ったが、栄子はそういう立場を楽しんで
いたフシが見える。マスコミの虚報を嫌がる林きむ子に対し、「あなただってかな
り華やかな生活といわれたじゃありませんか。野暮なことをおっしゃるな。ある人
には当り前のことがある人にはぜいたくに見える。要するにそれぞれが自ら治める
しかないじゃありませんか」と諫めている。

<続く>