江木姉妹小伝(20)

夫は飛ぶ鳥を落とす勢いの敏腕弁護士、親戚には政治家、金も家も権威も世間から
の羨望のまなざしもあり、栄子の人生の絶頂期を迎えるわけである。もしこの稿が
小説であるなら、お決まりの転落が待っているハズである。

明治42年(1909)、衷は大病に陥り、一時生命のほども危ぶまれたそうであるが、一
命を取り留めることができた。しかしそれ以降はあれほどの酒豪が酒を断ち、その
変わり点茶会を催した。しかも作古流という流派を自分ででっちあげたところが衷
らしい。その会則は、

   第一章 喫茶行為の意思表示は、書面又は口頭を以て之を為すことを要す。
   第二章 湯は熱度の如何を問わず、茶かたまりの大小を論ぜず、一気に之
       を呑むべし。但し、目を白黒するを妨げず。
   第三章 本法に違ふ者は、独断を以て一月以上二十年以下の訓戒に処す。
       但し、武士道を知る者は、陪審に依る正式裁判を請求することを得。
  【近世女流文人伝/會田範治】

大正初年(1912)には、今度は栄子が子宮を患い、卵巣の摘出手術を受ける。しかし
この予後が悪かったらしく、栄子は健康を損ねてしまう。時々喀血するなどあった
らしく、この後激しい運動などはできない体になってしまったようだ。もちろん衷
との子供も望んでいたであろうが、それも叶わぬ夢となってしまう。

そして大正12年(1923)9月1日、関東地方を未曾有の大地震が襲った。関東大震災
東京を直撃したのである。中でも神田地区は都内でももっとも被害の大きかった地
区のひとつであり、神田淡路町の黒門の江木邸も焼け落ちてしまう。江木衷と栄子
夫妻はたまたま軽井沢の別邸、遠近山荘に出かけていたため無事であった。一家は
牛込区砂土原町3丁目に引っ越して居を構えるが、大正13年頃衷は病を得、その後
一年ばかり小康を保っていたようである。
江木夫妻には子がなかったため、どうやらこの頃に養子を迎えたらしい。江木衷の
跡継ぎとして迎え入れられたのは、衷の弟精夫の次男、富夫である。
しかし大正14年(1925)4月5日に危篤に陥り、翌6日には医師の手当により一時奇跡的
に回復したが、桜がほころびかけた4月8日午後2時30分、心臓麻痺により逝去した。
68歳であった。

<A HREF=http://www.cc.rim.or.jp/~hustler/archive/egi.html><続く></A>