江木姉妹小伝(27)

華やかであった時代が嘘のように、ひっそりとした死であった。しかしその死後、
一世を風靡した麗人が謎の自殺を遂げたということで、新聞、雑誌に数多くの追悼
文が寄せられた。ませ子が後にこう語っている。

「姉は惜い人でしたわ、育て方と、教育のいようでは河原操さんのようなお仕事
をも、したら出来る人だったと思います。
 死ぬのなら、もっと早く死なせたかった。あの通りの華美(はで)な気象です
もの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけていました。私がはじめて淡
路町へいったころは、毎晩宴会のようでした。あっちにもこっちにも客あしらい
がしてあって――江木の権力と自分の美貌からだと思っていたから。だから顔が
汚くなるということが一番怖い、それと権力も金力も失いたくない。それが、震
災で財産を失したのと衷に死なれたのと年をとって来たのとが一緒になって、誰
も訪ねて来なくなったのが堪らなかったらしいのです。よく私に、夫に死なれて
後誰も来なくなったかと聞きました。お姉さまの周囲の人と、私の方の人とは違
うから、私の方は今まで通りですというと、変に考え込んでしまって――財産が
少なくなったっていつでも他のものなら結構立派に暮してゆけるだけはあったの
ですし、今思えば、京都の方へ旅行するから一緒に来てくれないかといいました。
そんなこと言ったことのない人でしたが、よっぽどさびしくなったのだと見えて、
練馬の宅には離れも二ツあるから、一緒に住まないかとも言いました。二男を子
にくれないかともいいました。けれどあんな気象の人ですからどこまで本気なの
かわからないので誰も本気で聞かなかったので、あとでは強い人があれだけいっ
たのには、いうに言えないさびしさがあったとは思いましたけれど――
 そうそう、よく死ぬのは何が一番苦しくないだろう。縊死が楽だというけれど
というので、いやですわ、洟を出すのがあるといいますもの、水へ入るのが形骸
を残さないで一番好いと思うと言いますと、そうかしら、薬を服むのは苦しいそ
うだね、と溜息をついたりして、変だと思った事もあったのですが、大阪へいっ
ても死ぬ日に、たった一人で住吉へお参詣に行くといって、それを止めたり、お
供がついていったりしたら大変機嫌がわるかったのですって、それから帰って死
んだのですが、あとで聞くと、住吉は海が近いのですってねえ。」