江木姉妹小伝(4)

栄子の母親は藤谷花子といい、麹町にある袋物の老舗「大和屋」の娘である。
女中(あるいは行儀見習)として関の家に出入りしていたらしい。ふたりの
間に栄子が生まれたのは、明治10年(1877)のことであった。

ところがどうやらこれは正式な結婚ではなく、「おてつき」だったようであ
る。関がまだ16歳の女中花子に手を付けたというのが真相らしい。田舎から
ぽっと出てきた権力者の主人と、出入りしている旧商家の娘という、なんだ
か時代劇にでもなりそうな設定だが、ともかく栄子は庶子としてこの世に生
を受けた。そのため栄子は物心つくまえに、京橋区木挽町の古道具屋(一説
によると高井戸の農家)に里子に出されてしまう。
この養家では、実の息子には錺職くらいしか覚えさせなかったようであるが、
勝ち気な性格の栄子には諸芸を習わせた。栄子も元来器用なたちだったので、
三味線や踊りなどの素養を身につける。そうして後に神田講武所の花街から
半玉として出る。講武所の花街は神田明神下にあり、明治初年頃にできたと
いうので、あまり位の高い場所ではない。
しばらくして栄子は、九州出身の金持ちに根引き(落籍)される。この旦那
と死別した後、栄子は再び花柳界に戻る。今度は新橋に移り、松屋という所
から、改めて「ぼたん」という名で半玉として出ることになる。

ちなみに半玉というのは、簡単にいえば芸妓のたまごで、芸妓の玉代が一本
のところ、半分なので半玉という。京都では舞妓という。
江戸期までの東京の花柳界は吉原がトップ、次に品川という明確なランクが
あったが、維新により新橋・柳橋が遊興街として急速に台頭してくることに
なった。これは維新により旧幕臣、旗本が支配階級を追われ、幕末には三流
と言われていた新橋・柳橋界隈で遊んでいた勤王党の志士たちが、政界に躍
り出たからである。花柳界といっても現在の風俗界のようなものというイメ
ージではなく、大正くらいまで食事と遊びがついた一種の社交の場であった。
当然ランクがいろいろあり、町民が遊ぶ所と、政治家が政談等に使う場所は
全く違う値段と雰囲気があった。従って花柳界、芸妓といっても、必ずしも
売春婦を意味するものではない。

この新橋芸妓時代に栄子は、当時の売っ子法律学者、江木衷(まこと)と出
会い、結局栄子は衷と結婚し、正妻におさまることになる。

<続く>