江木姉妹小伝(6)

江木衷は安政5年(1858)生まれ、岩国藩士の次男として生まれている。幕末の
動乱で父を亡くし、以後母親と兄の手によって育てられている。明治元年
8歳となっているため、維新前後の混乱には巻き込まれずにすんだ。長じて後
東京で勉学にいそしむ兄を慕ってのことであると思われるが、東京に出、東
大の前身である東京開成学校に入学、法学の道に進み、イギリス法を学んで
いる。給費生扱いだったというから、相当に成績も優秀であったらしい。明
治17年(1884)に法学部を主席で卒業して警視庁に入り、その後司法省に転任
し、井上馨の秘書となっている。ここから衷の才能が花開く。明治18年(1885)
英吉利法律学校(中央大の前身)を創設し、自らも教鞭を取るかたわら、明
治20年(1887)に『刑法汎論』を著す。明治22年大日本帝国憲法発布を前に、
日本の法律をどうするか、日本中で喧々諤々やっていた時代である。この本
がバカ売れし、衷は30歳にして一躍法律界の寵児となり、権威と財力を一気
に手に入れることとなった。この直後、更に衷の名声を高めた明治23年の法
典実施延期戦を紹介してみよう。
そもそも日本の法学界は完全に二分しており、政府司法省系のフランス法
と、大学を中心とするイギリス法派が対立していた。ここにフランス人の編
纂した民法(明23)とドイツ人の編纂した商法(明25)とが発布される。これに
イギリス派が真っ向から反発したのである。この意見書はもう喧嘩を売って
いるに等しい。
この論争は学会のみならず、議員やマスコミを巻き込んだ一大論争となった。
結局この争いはイギリス派が勝ち、施行を延期して見直しということになっ
たのだが、面白いのは江木衷が、純粋な学問的正当性よりも、議員や大衆を
見方に付けた方が勝つということを知っていた事である。
 激烈な論争駁撃の場合に、法典の法理上の欠点を指摘するなどは、白刃
 既に交わるの時において孫呉を講ずるようなもので(中略)要は議員を
 動かして来るべき議会の論戦において多数を得ることであった。その目
 的のために大なる利目のあったのは(中略)「民法出デテ忠孝亡ブ」と
 題した論文であったが、聞けばこの題目は江木衷博士の意匠に出たもの
 であるとのことである。(中略)右の如く覚えやすくて口調のよい警句
 は、群衆心理を支配するに偉大なる効力があるものである。
 【法窓夜話/穂積陳重