江木姉妹小伝(7)

その後内務省を経て外務省の参事官を務め、御雇外国人デニソンと共に大隈
重信の条約改正案撤廃に尽力している。「官界の驕児」と異名を取ったとい
うから、委細構わずかなり好き勝手やったのだろう。第一次松方内閣の内務
卿、品川弥次郎の秘書官を最後に官を辞し、明治26年(1893)弁護士法の制定
を機に在野に降り、弁護士事務所を開業する。

 江木衷氏、一昨日内務省参事官を辞職せる同氏は、代言業を営む筈にて
 近日出願するよし【時事新報/明治26年2月5日】

ここでも衷は瞬く間に成功を収める。東京弁護士会会長を二度務め、法典調
査会、法制審議会の委員に就任して民法、商法、刑法、刑事訴訟法などの立
法作業に参画、陪審法制定に功をあげる。こと刑法がイタリア学派の影響を
受け、裁判官の権限を大きく認めたことを批判し、陪審制導入の大事を説い
た。同時に三井の顧問弁護士を担当するなど、当代随一の売っ子弁護士となっ
た。大逆事件と教科書裁判を除き、明治・大正期の有名事件のほとんどすべ
てに関与したといわれている。ともかく頭のすばらしく切れる、激しい論客
だったらしい。金も地位も権威も才能も持っていたというとんでもない人な
のである。明治32年(1899)法学博士。

衷はその一方で風流を解し、自らを「冷灰」と号して漢詩を書き、森槐南ら
と共に一詩社を設けて独特の詩風を興している。秋山定輔の反権力新聞「二
六新聞」の発起人に名を連ね(明26)、大陸問題を論じる江湖倶楽部を組織し
たり(明31)するかたわら、世人向けに筆を執り、鋭い舌鋒で政府をこきおろ
してヤンヤの喝采を浴びた。
愛煙家で酒を好み、辛辣かつシニカルで、諧謔的な性格であったらしいが、
反面開けっぴろげで面倒見がよく、ユーモアを解した。

 江木氏は有名な酒豪であると共に又非常な煙豪である。「ヤア、マア風
 呂へでも這入り給へ」と初対面の人でも何でも平気で一緒に風呂へ這入
 りパクリパクリと五六本平げる。寝床便所で喫ふのを合算すると葉巻で
 一日廿本位敷島なら十五六箱だらうと云ふ評判で時々「静岡降りに付
 着駅致し候はヾ御起し願上候 車掌殿」などと云ふ札を貼り付けて汽車
 中でグウグウ高鼾なぞの奇芸もやる【大阪パック】

実兄に枢密院顧問官となった江木千之、甥に法相、鉄道相を歴任した江木翼
がいる。華やかな才能あふれる一族であったらしい。