江木姉妹小伝(22)

衷が亡くなったため、栄子は牛込区納戸町に引っ越す。先に述べた通り、江木精夫
の子富夫を養子を迎えている。当時は「家」の観念の強い家父長制だったので、こ
れはしょうがないことである。また徴兵制の生きていた時代であり、長男となると
徴兵されずに済むため、徴兵逃れとして養子となるケースもあったようだ。跡継ぎ
がないために養子を迎え入れるというのは、前に書いた江木翼のケースも同様であ
る。
前記したように、精夫が明治42年(1909)に陸軍を退役して以降、何をしていたかはよく
分かっていないのだが、富夫は明治22年(1889)に生まれており、栄子の10歳年下で
ある。一時伊藤姓を名乗っていた時期もあったらしい。
精夫は早稲田大学商科に進み、経済の世界を目指す。明治40年(1907)にここを卒業
すると、太平生命保険会社に入社する。太平生命保険は明治42年の創業だとのこと
なので、ほぼ会社設立と同時に入社していることになる。
大正5年から8年にかけてアメリカへ遊学し、帰ってくるなり徴収課長に昇進、大正
12年に副支配人となる。
伯父(父精夫の兄衷)が亡くなったことにより、大正14年(1925)に江木家を継ぐた
めに養子となり、家督を相続する。つまり養子とは言っても36歳なのである。すで
に結婚して長男の信敬も生まれている。
翌大正15年(1926)8月に営業部長となり大阪支店長となったが、昭和3年(1928)11
月、
天賞堂に専務取締役として迎えられる。
銀座の天賞堂といえば、明治12年に江澤金五郎が創業した宝石・時計商として、ま
だ煉瓦街であった明治の銀座に燦然と輝いていた名物店であり、夏目漱石の『虞美
人草』などにも登場する老舗である。現在でも銀座4丁目交差点に天賞堂が存在する
が、江澤金五郎のオリジナル天賞堂が、新本秀吉に経営者が変わって、その名前と
事業を引き継いで昭和3年(1928)に創立した店である。扱い品目は、初代と同様当
初は宝石と時計を商っているが、現在有名なのは昭和24年(1949)から始めた鉄道模
型の製作・販売の方である。
富夫が入社したのは後者の方の天賞堂である。富夫が天賞堂に招かれた経緯はよく
わからないのだが、昭和3年11月の新生天賞堂設立と同時に移籍しており、設立資
金がらみの問題なのか、あるいは富夫の腕を見込んで招かれたものであろうか。
大正10年(1921)頃9歳年下の酒井みつと結婚しており、少なくとも4人の子供を得
ている