江木姉妹小伝(23)

栄子は昭和4年(1929)頃豊島園に家を建てた。先に旧江木翼邸として紹介した家が
それのようだ。養子の富夫は牛込区砂土原の家に残り、栄子ひとりだけが引っ越し
た。
先に述べたように栄子はたびたびあった再婚の提案も断り、衷の冥福を祈って毎日
読経し、衷の遺稿を整理したり、趣味の書画篆刻で自らを慰めるといった尼僧のよ
うな寂しい生活を送っていた。ませ子や長谷川時雨など友人との付き合いは続いて
いたが、千之など衷方の親戚付き合いは疎遠になっていったようである。また、晩
年は貯金通帳や印鑑などを安心して預けられるひとも周りにおらず、巾着に入れて
常に持ち歩いていたとも伝えられている。
大正初年(1912)の子宮摘出手術の影響で体調も悪く、華美を誇った生活と、後ろ盾
となる夫、さらに美しさまでを失った栄子は、その生活に疲れ果て、神経衰弱にか
かってしまう。一時は新興宗教大本教出口王仁三郎の道場にも赴いたこともあっ
たらしい。
昭和4年(1929)12月、弟の早川徳次に招かれて、栄子は静養のために大阪を訪問す
る。この地に2ヶ月ばかり滞在したが、半分以上は病臥していたようだ。
まもなく東京に帰る予定としていた昭和5年(1930)2月20日、久しぶりに体調のよかっ
た栄子は観光がてら住吉大社に参詣に出かけ、帰ってきてから土産物の菓子などを
つまみつつ家族と夕食を取った。食事が終わって栄子は二階の自室に下がったが、
数刻後、家人が様子を見に階上へ上がってみると、栄子は縁側の鴨居に帯をかけ、
自ら縊死していた。醜くなる顔を見られないように、江木家の定紋の入った袱紗で
顔を覆い、右手に水晶の数珠を握っていた。
54歳であった。

<A HREF=http://www.cc.rim.or.jp/~hustler/archive/egi.html><続く></A>