江木姉妹小伝(24)

遺書を認めて自殺した欣々女史
  家族と共に機嫌よく夕飯をすまして僅か二十分の後には自殺した

【大坂発】自殺した欣々女史は故衷博士の死後非常に健康を害してゐたが、
自殺当日の二十日には家の人と昼飯を共にし早川氏夫人こと子さんや女中
本田とし子の二人と一緒に電車で住吉神社に参拝し、午後三時ごろおみや
げなどを買つて来てソレを食べつゝ「今日はお天気で久しぶりに楽しい思
ひをしました」とさもすが/\したやうな面持であつた、さうして午後七
時ごろには矢張り家人と一緒に楽しげなる晩餐の卓につき、すまして二階
六畳の自分の部屋に引取つたのである、がそれから僅二十分位の後、縁側
の梁にモズリン兵児帯をつるして自縊したものである、なほ遺書もあるが
東京の江木邸から誰か来るまでは一切発表せぬことにしてゐる、因みに葬
儀日取その他のことも未定である

『尼僧のやうな精進生活がしたい』

江木欣々女史は大正十四年四月夫君衷博士(法曹界の権威、わが国陪審
の恩人)の死後は牛込区納戸町の自邸で尼僧のやうな生活に入つてゐたが、
昨春市外練馬に数奇をこらした邸宅が出来たので、三月二十一日移り故冷
灰博士の冥福を祈りつゝてん刻や画筆に親しんで淋しさをまぎらしてゐた

 大正初年卵巣の手術をして依頼をして以来血落症状を来し時々血を吐
 き発作的に非常な憂鬱に陥る事があった、性来賑やかな事が好きだっ
 たゞけ博士なき後はしみ/\゛と寂しさを感じ衷はなぜ死んだのでせ
 うと側近の人々にもらしてゐた

昨年の半は病床にゐた有様で大阪の早川氏が「気晴らしに来てはどうか」
とのすゝめで□□女中二人を伴ひ大阪へ旅立ったが、その日まで浄土三
部経の紺地金泥の浄書に明けくれを暮らしていゐた、大阪滞在の六十日
間の五十日までは寝てゐた有様で二十日練馬の留守宅を預かつてゐる田
岡氏あての手紙によると

 大阪は東京より三度位寒い、月末まで帰る予定だが帰京したら青山善
 光寺にお詣りして尼僧のやうな精進生活をしてみたい云々

とあつた、これから想像すれば自殺するといふ事は考へてゐないらしい

 欣々女史は衷博士の家督相続人になつてゐたので沓掛には一萬余坪
 の宏壮な別荘もあり、公債や株券など夫人名義のもの多數あつたか
 ら日常生活は淋しかつたが物質上困る事はなかつた
東京日日新聞昭和5年2月21日夕刊】

<続く>