江木姉妹小伝(30)

早川徳次は早川政吉と花子の末子として、日清戦争の前年明治26年(1893)11月3日
に生まれているが、両親が病床に就いたことにより、花子に縁のあった深川東大工
町の肥料商、出野源八家に養子に出されることとなった。徳次はまだ1歳11ヶ月で
あったため、自分の本当の両親を知ることはなかった。出野家ではまもなく源八と
養母らんが離婚し、後添いとしてすえが入る。この頃には出野家は落ちぶれていて、
肥料商とは名ばかりで、その実は賃貸しのリヤカーで魚の臓物を集めて納めるといっ
た日銭稼ぎで、食事にも事欠くような相当困窮した生活だったようである。
これまで江木栄子の周囲で観てきたような富裕階級の世界とは全く異なり、徳次は
まったく悲惨な貧窮生活の世界に住んでいた。
養父源八は酒飲みでろくに仕事もせず、後妻のすえはなにかにつけ徳次につらくあ
たり、徳次に仕事を押しつけて自分は遊んでいるような継母で、とにかく徳次につ
らくあたった。徳次は学校に上がる前から家計の助けに夜更けまでマッチ箱のラベ
ル貼りに精を出し、小学校に入学はしたものの家計が苦しく、2年生で退学させら
れてしまう。
継母は2児を産んだが、徳次へのいじめは続き、彼は実質10歳に満たない年齢で
一家5人を養うだけの生活費を稼がねばならないという悲惨な生活を強いられてい
たのである。
しかし近所の井上という盲目の女行者が徳次の状況に同情し、本所北二葉町にあっ
た錺(かざり)職人の坂田芳松のところへ奉公に出すよう両親を説得する。明治34
年(1901)9月15日のことである。
徳次は9歳のときから7年7ヶ月の奉公に出ることになったが、その間に主人が鉛
筆製造業に手を出して失敗、事業が傾いて先輩奉公人がみな逃散するなどという事
件もあったが、徳次は義理堅く(実家に帰りたくないというのもあったろうが)7年
7ヶ月の丁稚奉公と、1年の御礼奉公を勤めあげる。この間も継母は毎月のように
金をせびりに来て、徳次の小遣い(奉公中なので給料はない)を巻き上げていたそ
うだ。
徳次はここで穴の不要なベルトのバックル「徳尾錠」を考案する。ベルト穴がなく、
コロでベルトを挟んで固定するあのベルトのことである。これが大当たりし、徳次
はちょうど年季が明けたこともあり、年号が変わった大正元年(1912)、本所で独立す
る。徳次19歳の時である。

<続く>