江木姉妹小伝(39)

この日記と手紙の草稿から、悦子は夫の関場と共に札幌へ引っ越したが、北海道の
気候が会わなかったのか病気がちとなり、明治27年(1894)11月頃には単身東京に帰
京し、結局は離婚していることが分かる。妹の藤子は「悦子君実家」つまり神田の
関清英邸に住んでおり、樋口一葉の紹介で中嶋歌子の私塾に入門している(一時期
一葉から直接教えを受けていた)。特に記載はないが、ませ子もこの関清英邸にい
たものと思われる。

悦子が嫁いだ「関場」であるが、筑摩書房版「樋口一葉全集」の注釈によれば、関
場不二彦という医者とのことである。号は関場理堂という。
関場不二彦は慶応元年(1865)9月19日生まれで悦子の5歳年上である。関場家は代々
会津藩に仕えた家系で、曾祖父関場友吉は与力、祖父は幕末戊辰戦争の際に鶴ケ城
を守って戦死、父親忠武も会津藩士であったという。つまり賊軍側ということにな
る。そのこともあったのか維新後明治3年(1870)、不二彦は父親と共に斗南藩大湊
青森県むつ市)に移住する。
不二彦は東京帝国大学医学部へ進み、外科教師であったドイツ人医師スクリバに師
事し、明治22年(1889)大日本帝国憲法発布の年に卒業している。その後も同学第一
医院外科で助手を勤めていたが、悦子と結婚したのはこの助手時代のことらしい。
不二彦は恩師スクリバの推薦を受け、明治23年(1890)に官立から公立に移行したば
かりの札幌病院(※)の副院長に就任、グリンムを継いですぐに院長となる。この札
幌病院着任のため、明治25年(1892)に妻の悦子を連れて北海道に渡ることになる。
不二彦は札幌病院長を1年勤めた後に職を辞し、私立の北海病院を開設する(明26)。
悦子と離婚したのはこの頃のことらしいが、明治31年(1989)から不二彦は欧米に留
学し、帰国後病院を北辰病院に改める。北辰病院はその後、北海道で最も大きく有
名な私立病院となり、札幌病院と共に北海道の中心的役割を担うようになっていく。
関場不二彦は当時外科の腕は一流と言われ、北海道医師会の初代会長を勤めたり、
バチェラーに請われてアイヌの無料診療所を開くなどの事跡があると共に、アイヌ
人について文化的人類学的研究行うなど、北海道の医学界にとっては欠くことので
きない人物であった。不二彦は悦子と離婚後、再婚しており、昭和6年(1931)までの
38年に亘って北辰病院長を勤めた後、昭和14年(1939)に病没している