江木姉妹小伝(附記2の1)

関場不二彦の家系を追記。

関場家の祖先は伊賀の出身で、蒲生家に仕えていた。蒲生氏郷に仕えた関場太右
衛門は禄高130石で、伊賀衆と呼ばれるエリートであったそうだ。つまり忍者の
祖先なのである。本能寺の変織田信長が没して後、豊臣秀吉により蒲生氏郷
会津百万石に飛ばされるが、それに従い、関場家も会津に移動する。しかし氏郷
没後、跡を継いだ蒲生秀行は豊臣秀吉下野国宇都宮18万石に格下げされる。関
場家はそのまま会津に残り、会津藩加藤家、松平家藩士となり、時代を下る。
関場不二彦の曾祖父にあたる関場春温(友吉)は会津藩で与力を勤めていた。この
頃ロシアの南下政策により、北方が脅かされるようになっていたが、それに対抗
するため、江戸幕府は文化4年(1807)に津軽・南部・秋田・庄内各藩に対し、蝦夷
地(北海道)防備を命じる。会津藩に対しては、翌5年に松前・宗谷・利尻・樺太
の防備が命じられ、会津藩梶原平馬景保を番頭として252名の藩士利尻島に派
兵している。関場春温は252人のひとりとしてこれに従い、1月10日に出発、翌閏
6月1日に利尻島に到着している。この蝦夷地防備は約3ヶ月で終わるが、開拓前の
蝦夷地のこととて、気候、食物の違いにより派遣された藩士にとって大変過酷な
ものであったらしい。春温は帰還直前に風土病である水腫病に罹り、その地で倒
れることとなる。水腫病による死者はこの蝦夷地防衛で51名に及んだそうだ。

春温の息子関場春武(安五郎。関場不二彦の祖父)は文化4年(1807)生まれであり、
蝦夷地出兵中に父親が亡くなった時、彼はわずか2歳であり、この年で関場家の家
督を継ぐことになる。会津藩で小納人や武具役所吟味役、奥女中付などを務めた
が、幕末戊辰戦争が勃発。松平容保率いる会津藩は当然幕府側(賊軍側)であり、
官軍相手に壮絶な鶴ヶ城守備の戦いを繰り広げている。春武は当時62歳という高
齢であったため、軍役には付いていなかったが、「今敵兵我境を侵す。是れ臣一
死を報ゆる秋なり」と壮烈な上申書を提出し、戦いに馳せ参じようとするが、こ
の上申は高齢を理由に却下される。しかし春武は再度上書して譲らず、遂に致死
隊指図役の命が下る(九石五斗二人扶持)。春武は鶴ヶ城下柳原口を守備したが、
慶応4年(1868・明治元年)9月6日、敵兵迫るを聞き、槍を揮って出撃したが、敵兵
の弾丸にあたって62歳の命を閉じた