江木姉妹小伝(41)

ちなみに樋口一葉も一時淡路町に住んでいたことがある。明治22年3月からという
ことなので、江木写真館はすでに開業しているが、友人の悦子はまだ独身で駿河
台の関清英邸にいたものと思われる。
悦子と樋口国子がいつ出会ったのかは分からないが、悦子はその後関場不二彦に
嫁いで北海道に渡るので、一葉も友人が数年後にご近所の有名写真館の主人と再
婚するとは思ってもみなかったであろう。

悦子は再婚であるが、江木保男も結婚歴がある。福山藩の儒学者であった父親江
木鰐水の弟子の娘と明治18年(1885)に結婚しており、ふたりの間に定男という名
の息子をもうけていた。しかしこの奥さんが明治27年(1894)に病没したため、ま
もなく北海道から帰ってきた悦子を後妻として迎え入れたものらしい。ちなみに
悦子から見れば保男の連れ子となる江木定男は明治19年(1886)生まれであり、実
妹のませ子と同い年の息子ということになる。

ませ子の幼少時代についてはよくわからないが、関新平が愛媛県令を勤めていた
時に生まれた娘であり、1歳の時に父親新平が亡くなっている。父親が没した後、
母和気子、姉たちと共に神田区西小川町に住んでいた弟の関清英の邸宅に移り、
そこで一緒に育ったようだ。
やがて15歳の頃(明33頃)、女学校の名門御茶ノ水女学院に通い始める。年の離れ
た姉・悦子は既に江木保男に嫁いでおり、淡路町に住んでいた。淡路町と御茶ノ
水は淡路坂を登ってすぐ近所なので、おそらく通学の便のために、ませ子は淡路
町の姉夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学することになる。
先に述べたように、栄子の調査により、異母姉妹である彼女らが再会を果たした
のはちょうどこの頃のことである。

悦子が江木家に嫁いできたのが明治28年(1895)頃で、栄子が越してきたのが明治
30年(1897)頃のことであり、栄子の調査によって姉妹であると判明する明治33年
頃まで、何の運命かごく近所に住んでいながら姉妹だとは夢にも思っていなかっ
たのである。

<続く>