江木姉妹小伝(42)

悦子は再婚であるが、江木保男も結婚歴がある。福山藩の儒学者であった父親江木
鰐水の弟子の娘と明治18年(1885)に結婚しており、ふたりの間に定男という名の息
子をもうけていた。しかしこの奥さんが明治27年(1894)に病没したため、まもなく
北海道から帰ってきた悦子を後妻として迎え入れたものらしい。ちなみに悦子から
見れば保男の連れ子となる江木定男は明治19年(1886)生まれであり、実妹のませ子
と同い年の息子ということになる。

ませ子の幼少時代についてはよくわからないが、関新平が愛媛県令を勤めていた時
に生まれた娘であり、1歳の時に父親新平が亡くなっている。父親が没した後、母
和気子、姉たちと共に神田区西小川町に住んでいた弟の関清英の邸宅に移り、ここ
で一緒に育ったようだ。
やがて15歳の頃(明33頃)、女学校の名門御茶ノ水女学院に通い始める。年の離れた
姉・悦子は既に江木保男に嫁いでおり、淡路町に住んでいた。淡路町御茶ノ水
淡路坂を登ってすぐ近所なので、おそらく通学の便のために、ませ子は淡路町の姉
夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学することになる。
先に述べたように、栄子の調査により、異母姉妹である彼女らが再会を果たしたの
はちょうどこの頃のことである。

悦子が江木家に嫁いできたのが明治28年(1895)頃で、栄子が越してきたのが明治30
年(1897)頃のことであり、栄子の調査によって姉妹であると判明する明治33年頃ま
で、何の運命かごく近所に住んでいながら姉妹だとは夢にも思っていなかったので
ある。
同じ町内に江木姓の家が2軒あり、有名な写真店と高名な弁護士であったわけで、
当然双方の面識はあったものと思われる。
栄子は江木衷と結婚してから自分の出自を調査し始め、関家との関係を知るわけだ
が、その実の姉妹がすぐ近所に住んでいたというわけなのである。この後栄子とま
せ子は親しく付き合い、栄子が亡くなるまで途絶えることはなかったようである。
栄子と悦子、ませ子が再会した当時、栄子は21歳、ませ子は15歳、悦子は30歳であ
る。

<続く>