江木姉妹小伝(43)

後にませ子をモデルに『築地明石町』を描くことになる鏑木清方は、江木保男の
知人であり、後に妻となる照はませ子のお茶の水での学友でもあった。鏑木清方
がこの頃のませ子を目にしている。

  私が好きでかく明治の中ごろ、新橋の駅がまだ汐留にあつた時分で、もう
 出るのに間のない客車に、送るのと送られるのとふたりの美しい女学生を見
 た。送られる方は洋髪の人で車上にゐる。ホームに立つて送るのは桃割れ
 紫の袴を裾長にスラリとしたうしろすがたは、そのころ女学生をかくのにた
 くみだつた半古さんの絵のやうであつた。
  昭和二年にかいた「築地明石町」に面影をうつしたM夫人はその時の桃割
 れの女学生だつた人で、私の家内と女学校のともだちなのだ。
 【M夫人/鏑木清方

先述のとおり、この家には江木保男と先妻の子である定男という同い年の息子が
おり、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)へ通っていた。「いわく不
可解」と遺書を残して華厳の滝に身を投げた藤村操の一期後輩であり、夏目漱石
が英語の教鞭を取っていた時代でもある。友人に岩波茂雄岩波書店創立者)、
阿倍能成(のちに学習院学長)、尾崎放哉(「咳をしてもひとり」)、中勘助
(作家)などがおり、卒業後も付き合いが深かったようだ。
ませ子は文学少女であり、同時代の人気作家であった泉鏡花のファンクラブ、鏡
花会(鏡花を囲んで酒肴を楽しむ会)に出入りしていた。定男もまた同じこの会
に出席していたらしい。
同い年で同じ屋根の下に住み、同じような文学趣味を持つふたりはしだいに惹か
れあい、ふたりは学生のうちに結婚することになる。
その経緯を友人の作家中勘助がこう書いている。

<続く>