江木姉妹小伝(3)

「築地明石町」は鏑木清方の代表的美人画で、昭和2年(1927)に描かれてい
る。『女性人名事典』には江木栄子がモデルであると書かれているが、これ
は誤り。正しくは異腹の妹、ませ子がモデルである。栄子は大正から昭和初
期にかけて美貌の才人と謳われ、妹のませ子もこの絵で、日本の代表的美人
として記憶されることになった。それぞれ評判の美人姉妹であったわけであ
る。

この二人の父親は、佐賀の漢学者で尊皇派の志士として知られた関新平であ
る。明治新政府の司法卿江藤新平東京府知事や民部・文部・司法卿を歴任
した大木民平(喬任)と共に「佐賀の三平」と並び称された人物らしいが、後
に言う「佐賀の七賢人」には入れられていないくらいなので、歴史に名を残
したほどではないのだろう。この七賢人には、江藤、大木の他に、大隈重信
外務大臣)、副島種臣(外務卿)などがいる。実は佐賀の三平にしても、
司馬遼太郎は江藤、大木ともう一人には、維新後品川県令となった古賀一平
を挙げている。

幕末の肥前佐賀藩は「妖怪」と呼ばれた傑物、鍋島閑叟を藩公に擁していた
が、江戸期より「葉隠」を旨とし、鎖国の中の鎖国と言われたほど徹底した
秘密主義にこだわり、そのおかげで幕末の倒幕運動には完全に出遅れている。
その佐賀の志士たちが、維新政府に割り込めたのは、ひとえに江藤新平らの
活躍や、なにより当時、日本最新鋭を誇る軍隊を持っていたからであるのだ
が、ともかく、廃藩置県後の混乱に乗じたのかどうかは知らないが、関新平
もその恩恵にあずかり、明治5年(1872)に茨城県参事となっている。その後
裁判官を経て明治13年(1880)には愛媛県令に就任する(県令は現在でいう県
知事)。ところがここで、前県令岩村高俊一派を強引な手段で排除しようと
したり、民権派の新聞を弾圧したりしたらしく、高圧的だとしてあまり評判
は芳しくない。茨城県時代の評判は悪くなかったらしいが、水戸藩は水戸光
圀がいた徳川御三家のひとつ(茨城県民が旧幕的だというわけではないが)。
結局関新平は旧幕藩体制の古い因習が抜けきっていなかったのかもしれない
し、県令という地位がそうさせたのかもしれない。松山の民権結社、公共社
の井手正光が評した言葉が残っている。
「正直な漢学者で酒を好み、西洋流儀の議論をすると激昂、孔孟主義で
 論じると機嫌がよかった」

<続く>