江木姉妹小伝(5)

栄子と江木衷が結婚したのは、おそらく明治30年(1897)代初めころのこと。
衷(まこと)が40歳初め、栄子が20歳ころというから、20歳も年が離れた
夫婦であった。

当時は芸妓の時代であり、明治の元勲たちも多く芸妓を正妻としている。
伊藤博文(梅子)、原敬(浅子)、板垣退助犬養毅(千代子)、山県有
朋(貞子)、陸奥宗光(おりう)、木戸孝允(幾松)なども皆、元芸妓を
正妻に迎えている。うがった見方をすれば、維新により薩摩・長州・土佐
肥前など地方から大挙して訪れた元・志士たち、ようするに田舎侍たち
を、偏見なく見ることのできたのは、芸妓くらいだったのかもしれない。
それも吉原とか格式高い所(つまり旧幕派)ではない新興遊興地区の芸妓
たち。
当時藩が違えば外国という程の認識がある上、訛りも強く、江戸っ子のよう
に粋な遊び方ができなく、そのくせ自分たちの上に立って偉そうにしている
というわけで、江戸っ子としての矜持のある東京の町民から嫌われたという
記録もある。元々は刀を担いで風雲の中を走りまわっていた気の荒い浪人ど
もである。この人材を使って明治政府の政治家や官僚が大量生産されたので
あり、その地方侍が大挙して東京になだれ込んできたわけである。維新は政
治界だけでなく、東京花柳界の勢力地図をも一気に変えたといえる。
ともかく、これが一種のブームとなって、大正時期までしばらく、政治家や
有力者が芸妓を正妻に迎える風習がついたのである。

江木衷と結婚したことにより、栄子の生活は一変する。衷は当代随一並ぶも
のなき敏腕弁護士であり、顧客・知人も政財界のトップクラスである。栄子
はここで社交界デビューを果たし、夫の権勢もあったであろうが、芸妓時代
に身につけた玄人はだしの諸芸の巧みさと、類まれなる美貌でもって、一躍
社交界の花形となってゆくことになる。

<続く>