江木姉妹小伝(12)

ここで明治末期の政界を説明しておく。正直言って筆者の手に余るのではあ
るが、独断と偏見に基いて簡単に記してみたい。

成立期の明治政府は、薩長土肥の四藩の藩閥に牛耳られていたと言って過言
ではない。しかし土佐藩肥前佐賀藩は完全な後発組であり、薩長の後塵を
拝していた。現実的に明治政府は薩長閥に占められていたのである。これは
初代内閣の構成を見るだけで歴然とわかる。薩摩4、長州6、土佐1、旧幕
臣1という構成になっている。

そもそも薩長は幕末より仲が悪かったが、坂本竜馬ら土佐派の斡旋により、
倒幕のため手を組んでいたにすぎない。それがほころんだのか西郷隆盛を長
とした薩摩の叛乱、明治10年(1887)の西南戦争であり、これにより長州閥
株があがった。長州閥のトップは山県有朋伊藤博文であった。また、明治
政府には8人の元老がおり、次期首班を指名できる立場にあったことから、
実質的には彼らが日本政府の去就を握っていたと言える。これもまた薩長
のバランスの上にたったメンバーであった。

この結果は歴代総理を並べてみると歴然としている。第15代まで見てみても、
第8代の大隈重信が佐賀出身なだけで、あとは全て薩長出身者に占められてい
る。
長州系は後に伊藤博文を中心に政友党を結成して郷土色を少し消したが、翼
が政界に躍り出た明治末期には伊藤博文ハルビンで暗殺され、長州閥は事
実上山県ひとりが背負っていた。
この山県がクセもので、権力意識が強く、藩閥主義をあくまでもつらぬき、
宮武外骨に揶揄されたりしていた政界の長老である。長州出身の千之も当然
山県系の政治家であり、翼も山県系有力若手としてデビューしている。
 しかし桂太郎大正元年(1912)三度首相となった時、彼は官僚政治を脱し
政党政治を目指して同志会を立ちあげる。翼は周囲の反対を押し切って若
槻らと共にこれに参加する。この動きに山県が激怒し、これがその後の長州
閥分裂の直接のきっかけとなる。山県派の叔父江木千之もいい顔をしなかっ
たというが、激怒したのは以前より目をかけていた山県、寺内であった。
特に大正5年(1916)寺内正毅内閣が成立した時、翼は鉄道大臣の椅子を
提供されたが、これを蹴とばして同志会と共に活動する道を選ぶ。これに
より山県派と翼の中は決定的に悪化し、翼はその後何かにつけて長州閥
目の敵にされる。

<続く>