江木姉妹小伝(13)

桂太郎は同志会を立ち上げてすぐ癌に倒れてしまう。その後党首は加藤高明
が引き継ぐが、周囲の政党の賛同が得られず、派閥的には小党の域を出なかっ
た。「苦節十年」の末、憲政会が第一党となり、大正13年(1924)加藤高明
閣が成立、翼は内閣書記官長となる。しかしその後の道も平坦ではなかった。
加藤が肺炎に倒れて憲政会は若槻礼次郎に引き継がれ、若槻内閣が成立。翼
は司法大臣となるが、この期間に憲政会長老の疑獄事件や朴烈事件といった
スキャンダルに見舞われ、追い打ちをかけるように大正天皇崩御し、昭和
が成立。同時に第一次大戦の軍需景気の反動による昭和恐慌が起き、憲政会
内閣は崩壊する。
翼はその後、昭和4年(1929)の濱口雄幸内閣から第二次若槻内閣まで鉄道大臣
に就任し、民政党と名を変えた憲政会の将来の総裁と目されていたが、在任
中の昭和6年に病を得て大臣を辞職、闘病の末、翌7年9月18日に歿した。

生来の読書家であり、政治家というよりも研究者然としており、広範な知識
を縦横無尽に駆使して政治に辣腕をふるった。華はなかったが、その知略と
見識をもって、名参謀として政官界の駆け引きに奔走したようである。鉄道
警察は彼が鉄道相時代に制定したものであり、日本工業界の発展を目して、
鉄道機材の国産化を積極的に推進した。鉄道相としての責任範囲を超えた発
想であるが、彼は一旦方針を立てると、周囲の反対を頑として受け付けず、
頑迷なまでに実現に向けて行動した。妥協を許さず強引に信ずる道をひた走っ
たところは、さすが江木衷の薫陶を受けただけのことはあると言うべきか。

  一つの見識を立てゝ、他人が何と云はうとも、それを固執する。
  その態度が専制的だ。其所に彼の不人気が生れる。だが、それは、
  日本の議会政治を衆愚の政治に堕落せしめない為めに、彼れが孤軍
  奮闘してゐる姿とも見られるであらう。
  【馬場恒吾中央公論1930.10月号】

翼は闘病生活中、自らの病状を詳しく日記に綴っていた。その日記は、亡く
なる二月前、昭和7年7月23日で途切れている。

  七月二十三日
   午前十一時半頃梗便、中量

実直、官僚的と言われた翼らしいといえば、彼らしい末期の筆ではある。

<続く>

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