江木姉妹小伝(14)

江木栄子と衷に話を戻す。
栄子と衷の出会いにはこんなエピソードが伝えられている。

  それはまだ良人衷が、本郷は元町の小さな下宿屋に転がつてゐた時
  分のことである。彼はそこから毎日赤門へと通つてゐた。
   当時元町附近の下宿を次から次へと廻つて、書生さんたちの汚れ
  物の御用聞きに歩いてゐた西洋洗濯屋の娘があつた。名を栄ちやん
  と云ふ。まだほんの肩上げさへ取れない小娘だが、なんとなくあど
  けない可愛らしいところがあつて、誰にでも好かれる顔を彼女は持
  つてゐた。即ち元町附近の書生さんたちの話題に忽ち上がつた所以
  である。分けても後の博士江木衷、当時の帝大法科生江木衷は誰よ
  りも一等此の栄ちやんを可愛がつてゐた。来る度毎に彼は菓子など
  を与えてゐた。栄ちやんも亦(ま)た従って江木が大好きな書生さ
  んの一人になつて終つた。
   これこそ誰あらう、現今社交界の花形の一人たる江木欣々女史其
  人なのである。
   ところが、如何した訳か、ある日限り此の栄ちやんの愛くるしい
  姿が江木の下宿は勿論、他の下宿にもすつかり見せなくなつて終つ
  た。(中略)
   彼は遂に黙過することが出来なかつた。人知れずいろ/\探つて
  見た。事情は間もなく判明した。彼女の家が弓町であつたから、様
  子は早く知ることが出来たのである。併しそれは単に栄ちやんの家
  が商法に失敗して、神田辺へ引越したといふに止まつた。
   爾来幾春秋の月日が経つ。江木は学士になつて弁護士を開業した。
  ある年の新春、東京弁護士会の新年宴会があつた。江木も勿論お客
  の一人であつた。宴席に侍つた多くの芸妓の中に、江木をして非常
  に驚かした一人の若い妓があつた。
   これこそ誰あらう。昔の栄ちやん、今の芸妓栄治其の人であつた
  のだ――。
  【明治大正恋の絵巻物/女の世界大正10年1月号】

しかし栄子の生い立ちには不明な点が多く、これは話が出来すぎで巷間に流
布した噂に属する話かと思われる。結婚後も、栄子は美肌を守るために牛乳
風呂に入っているなどという話も当時まことしやかに
噂されていた。

<続く>