江木姉妹小伝(15)

衷は晩婚であったこともあるが、独身時代はその筋でも結構浮き名を流して
いたようである。尾佐竹猛の『法窓珍話閻魔帳』に「衷は今こそ此夫人を得
て納まつて居るが、青年の頃は風流戦はなか/\盛なものであつたが茲(ここ)
には其頃の珍聞は見合せて置かう」との文章が見える。

しかしふたりが結婚する時、栄子が「これから先きはお遊びになることはお
廃しになつて下さい。第一あなたの健康を害する許(ばか)りでなく、また
わたしの恥にもなります」と要求すると、それ以来外で遊ぶのはぴたりと止
めて、娘のように栄子を可愛がったという。
【浅谷蔦園/婦人画報昭和5年4月号】
その代わり衷は毎週知人友人や有名人、記者を自宅に招き、豪華な宴会を開
いた。結婚当時衷は弁護士事務所を開業したばかりで、まだ借金も多く、し
ばらくは苦労したようであるが、兄の千之は茨城県知事、甥の翼も千之に養
子縁組したばかりで、政官学界の有力者がぞろぞろと出入りする華やかな家
庭であったようだ。若者に対する面倒見もよく、書生を多数自宅に住まわせ
ていた。
ここらへんは栄子の養父が属していた任侠の影響かもしれない。自分達に子
供ができなかったこともあるであろうが、書生達の母代わりとして慕われた
ようで、この書生たちの中から身を立てた人も多い。

新婚の夫妻は神田に豪邸を建て、衷の弁護士業が軌道に乗るにつれて、豪勢
な生活を送るようになっていく。毎夏電車を一両借り切り、使用人や専用料
理人、書生を引き連れて軽井沢へ避暑に出掛け、毎週東京から鰻を取り寄せ
たりした。法学博士の夫人として、栄子は学問・諸芸を研鑽を積み、和漢詩
、絵画、篆刻、琴、茶道、華道、柔剣道などを、それぞれその世界の超一流
の先生を招いて学んでいる。しかしこの習い事に対する熱意も、いわゆる奥
様芸の域を越えており、それぞれ玄人はだしの腕を持つようになった。
身につける物も一流で、「寝ても起きても縮緬づくめでいつも並外れて大き
い丸髷に紫縮緬の被布を着流し、両手の指にはありったけの宝石の指輪を孔
雀のやうに輝かしてゐた」(東京日日新聞昭和5年2月21日付)。
すべて衷の財力に「ものをいわせた」という感じであるが、このため栄子は、
世間からは派手好きの虚栄婦人と思われていたようである。

<続く>