帰ってきた!江木姉妹小伝(16)

女性というものがもてはやされるようになったのは、何も明治時代からという訳で
もなく、江戸時代の浮世絵や錦絵に見られるように、市井の人々にもてはやされる
「美人」は、芸妓が中心であった。まあ、マスコミらしいマスコミはなく、芝居・
講談、浮世絵、かわら版がそれを代用していたので、しょうがないと言えばしょう
がないかもしれない。文明開化後に「美人」に祭り上げられたのも芸妓が多いが、
その後、華族の奥方や上流階級の令嬢たちに対象が移っていく。
しかしまあ、ここまではどちらかというと男性中心から見た「美人」といえる。
明治後期から大正にかけて、平塚らいてうらの女性運動が活発化すると同時に、婦
人雑誌が続々と刊行された。女性解放運動というかなんというか、ともかく世の中
に向けて女性の発言権ができてきたわけである。ここらへんにも開化思想かなにか
の原因があるのだろうが、それはひとまず置いておく。ここにきて雨後のたけのこ
の様に発刊された婦人雑誌であるが、その中身を読んでみると現在の婦人雑誌とな
んら変るところがない。女性の自立について。美容法。夫婦生活の知恵。ゴシップ
などなど。
現在であれば芸能界にあたるのが、当時のサロンである。庶民が憧憬と若干の反感
を持って眺めていたのは、上流階級の夫人、娘たちであった。彼女たちは婦人雑誌
のグラビアを飾ると共に、街で絵葉書(ブロマイド)などが売られた。当時の雑誌
をめくると、有力者令嬢の対談なんて記事も出ており、庶民の憧れであったことが
分かる。
栄子は、サロンの女王と謳われたてはいたが、実際にはそういった社交の場に出た
ことはない。それはマスコミによって作られたイメージなのであるが、その代り前
述したように、毎週自宅に様々な業界の客を大勢呼んでいた。長谷川時雨もその時
の様子を書いている。

   キュラソウの高脚杯を唇にあてて、彼女はにこやかに談笑する。
   「今晩は、お雛様も御洋食ですの。わざと、洋食にいたしましたのよ、
  自慢の料理人でございます。軽井沢へゆきますのに連れてゆくために、特
  別に雇ってある人ですの。」
   その、御自慢の料理人が、腕を見せたお皿が運びだされた。
   「明日は泉鏡花さんも見えるでしょうよ、あの方の厭がりそうなものを、
  だまって食べさせてしまうの、とてもおかしゅうござんすわ。」
<続く>