江木姉妹小伝(34)

さて早川徳次大正4年(1915)、19歳の時に早川式金属繰出鉛筆(エバー・レディー
シャープペンシル)を発明する。現在のシャープ・ペンシルである。株式会社シャ
ープの「シャープ」は、シャープ・ペンシルの「シャープ」だったのである。
これが世界的ヒットを飛ばし、徳次は兄政治と早川兄弟金属工業を立ち上げる。徳
次は大正11年(1922)病に倒れるが、栄子の奔走により一命を取りとめるといった事
件はあったものの、会社もどんどん成長していき、本所林町の他に、押上・亀戸に
も分工場を設置し、プライベートでもひろ治と克己という2児をもうける。
不遇な少年期を経てやっと順調な人生を歩みかけたところで、大正12年(1923)の関
東大震災である。栄子も家を焼け出されたが、徳次は自宅家屋はおろか妻子まで失っ
てしまう。また、弱みにつけ込んで借金返済を迫る日本文具株式会社に対し、シャー
プペンシルの製造機械と権利一切を渡してしまい、それこそ裸一貫に戻ってしまう。
この問題がまた後日こじれた時は、昭和2年の日本文具との訴訟においては、江木衷
門下の大塚弁護士を代理人として立てている。

徳次は震災ですべてを失った後、大坂に移って再起を図り、早川金属工業研究所を
設立する。琴子と再婚し、大正14年(1925)に日本で初めてラジオ受信機の量産に成
功、その後世界で始めて電卓を売り出す、液晶など、その後のシャープの大躍進は
ご存知の通り。自分を不幸な養家から救ってくれた盲目のおばさんに恩義を感じ、
全盲者の作業場を立ち上げたり、ボランティア活動も指揮しつつ、昭和55年(1980)
に亡くなっている。

以上で江木姉妹小伝の第一部「江木栄子編」は終わりである。が、江木栄子/衷関
連の一次資料、『冷灰遺稿』(江木栄子編)という資料にまだ目を通していないの
である。しかも江木千之と翼の伝記があるのだが、いーかげんにしか目を通してい
ないという事情はあるが、しかしまあそれは、また読んだ時にでも改稿することと
したい。
ここまで飽きずに読んでいてくれてる方がどれだけいるのか分かりませんが、あり
がとうございました。このまま続いて江木ませ子篇に突入しますのでよろしくお願
いします。
ちなみにこの「江木姉妹小伝」は、当初20回ほどの連載で終了するつもりで始めま
したが、現在の見込みは全50回ほどになろうかと思われます。

<続く>