江木姉妹小伝(35)

さてだらだらと連載は続いているが、ここでやっともう一方の主人公、江木ませ子
のお話である。この文章を書き始めた当初はませ子についての情報はほとんど見つ
けていなかったし、期待もしていなかった。派手な人生を送って寂しく死んだ栄子
と、美人画のモデルとなった以外はとりたてて話題のない平凡な主婦ませ子、とい
う構図で書き始めたのだが、調べていくとどうしてどうしてませ子も普通の主婦と
はいいながら、ドラマチックな人生を歩んでいるのであった。そうしてもうひとり、
悦子という江木の名字を冠した関新平の娘がもうひとり登場する。
なお、ませ子は漢字で書くと万世または万世子と書くのだが、本文ではませ子と表
記する。

冒頭に述べたように関新平43歳の時に正妻の和気子との間に設けた娘がませ子であ
り、明治19年(1886)というから、愛媛県令であった新平はませ子が産まれて1年後
に亡くなっていることになる。
ませ子には16歳年上の悦子と、4歳年上の藤子というふたりの姉がいた(栄子の異父
姉妹に当たる)。明治20年(1887)に関新平が亡くなった時、妻の和気子が何歳であっ
たかは分からないが、悦子(17歳)、藤子(5歳)、ませ子(1歳)の3人の娘を連れて、
新平の実弟関清英の元に身を寄せていた。

この関清英という男は、嘉永4年(1851)生まれ、関家の三男で関新平の8歳年下の弟
である。明治9年(1876)に司法省を皮切りに検事補、検事正と進み、のちに佐賀県
(明31)、群馬県令(明34)、長野県の知事(明35〜38)を歴任、警視総監(明38)まで登
り詰め、貴族院議員となった男である。ちなみに佐賀県令時代は選挙干渉に端を発
した県会乱闘事件の黒幕として国会で追求されたこともある。長野県令時代も結構
議会ともめているようだ。
実業界にも顔が利き、明治40年茨城県日立市に設立された助川セメント製造所
(現在の日立セメント)にも関与している他、明治精糖(現在の大日本明治精糖)、
中央精糖などの代表でもあった。新平が亡くなった明治20年(1887)当時はどこかの
地方裁判所の検事正をやっていたものと思われるが、東京の神田区西小川町に家を
持っていた。ここは衷の法律事務所があった神田淡路町からすぐ近くでもある。

<A HREF=http://www.cc.rim.or.jp/~hustler/archive/egi.html><続く></A>