江木姉妹小伝(37)
明治25年3月18日【日記】
午後関場君并に中嶌師のもとより手紙来る
明治25年3月19日【同上】
…但し関場君今日入門の筈成りしが障ることありて得せず断のはがき来る
明治25年4月24日【につ記】
廿四日早朝関君へはがきを出す
明治26年3月7日【よもきふ日記】
北海道関場えつ子君より文あり
明治26年3月26日【よもきふにつき】
早朝札幌関場君より国子のもとに文あり
明治27年1月10日【塵中日記】
これより年賀の状を出したるは山梨にて野尻兄弟雨宮古屋越後の坂本ぬ
し札幌の関場君東京にてハ三宅伊東旧半井櫻井喜多川君並びに兄君成れり
明治27年11月11日【水の上】
十一日 けふは瀧の川の紅葉みんと田中君にちぎり置しを市川ぬし関の
藤子などの稽古に来たらむも斗がたければことはりいひやる
明治28年5月17日【ミつのうへ】
関場君のもとより藤子か病気の容体申しこさる
明治29年1月頃【水のうへ】
日こと訪ふ人ハ花の如く蝶の如きうつくしの人々也 大嶋文学士が奥方
のやさがたなる大はしとき子の被布すがたわか/\しき 今ハ江木が写
真師の妻なれど関えつ子の裾もやうでたち 同じく藤子が薄色りんずの
中振袖 それよりハ花やかなる江間のよし子が秋の七草そめ出したる振
袖に緋むくを重ねしかわりのさまもよく師はん校の両教授がねづみとび
わの三まい着取々にいやなるもなし
明治27年(1894)正月の年賀状の記述から分かるとおり、樋口家が親しく付き合って
いる数少ない交際相手のひとりが悦子であり、清貧にあえぐ樋口家を何かと援助し
ていたお嬢様という様子が見える。蔵書もかなりあり、教養程度もかなり高かった
ようだ。ちなみに樋口家は元々士族で羽振りがよかったが、父親と長男が亡くなっ
てから家が没落し、清貧にあえいでいたのである。そんなに仲が良いなら、樋口一
葉に資金援助してやりゃあいいじゃねえかという声も聞こえてきそうだが、一葉は
最も仲の良かった友人からも金銭援助を受けることは頑として断ったらしいし、第
一当時として、いくらお金持ちでも女性はお金を自由にはできなかったものらしい。
<A HREF=http://www.cc.rim.or.jp/~hustler/archive/egi.html><続く></A>