江木姉妹小伝(付記1の1)

明治43年(1910)5月25日、長野県東筑摩郡中川手村にある明科製材所の職工、宮下太
吉をはじめとする4人が爆裂弾所持により身柄拘束された。引き続いて社会主義活動
家である幸徳秋水ら26名が相次いで逮捕され、幸徳秋水を首謀者として天皇暗殺を
謀ったとの理由で起訴された。起訴の根拠となったのは刑法73条。

 「天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫二対シ危害ヲ加へ又ハ
  加ヘントシタル者ハ死刑二処ス」

いわゆる「大逆事件」である。政府による社会主義者無政府主義者弾圧として歴
史に名高い事件であるが、たった7ヶ月後の翌44年1月24日には幸徳秋水、大石誠之
助、管野スガら12名の死刑が執行されている。なおこの件については、今ではほぼ
冤罪であることが分かっている。
この裁判において社会主義者側の弁護を担当したのが、鵜沢聡明、花井卓蔵、今村
力三郎、平出修らである。花井卓三は前に書いたように、江木衷の後輩にあたる。

前に江木衷は「大逆事件と教科書裁判以外のほぼすべてに関わった」と書いたが、
実はこの大逆事件の弁護にも要請されていたのだが、衷の方が断ったらしい。小説
家でもある弁護士・平出修は、それがよっぽど腹に据えかねたのか、大正元年、雑
誌「スバル」誌上に江木衷をモデルとした『畜生道』という小説を書いている。言
いたいことを要約すると、

 「高津暢(江木衷)は打算から大逆事件の弁護を断った。それは若い妻であ
  る愛子(栄子)にふぬけているから。」

衷の容姿から生活態度にまでたっぷりと嫌味がちりばめられているが、ずいぶんと
まあ嫌われたものである(笑)。しかも小説中の江木衷に「汝は汝に与ふるに十分
の報酬を以てしたならば、あの弁護は拒絶しなかつたのであらう」とまで自省させ
ているのだ。江木衷は当時52歳、平出修の観察によると、新進気鋭の弁護士であっ
た昔の影は今はなく、衷の側を離れずなにくれと衷につくす栄子に囲まれてぬくぬ
くと暮らしている、と考えられている。実際に衷がどういう理由で断ったかのかは
分からない。もしかすると本当に儲からない仕事は断ったのかもしれない。それは
ともかく衷がこの事件をどうとらえていたかの一端が、国会図書館井上馨関係文
書に残されている。それはやっぱり、井上馨に対し陪審制度の実現を説いているも
のなのである。

<続く>