江木姉妹小伝(62)

 続いて弘化3年(1846)9月3日、三男健吉(通称乾吉)が生まれる。千之の比べて楽な出産だったようだが、「発熱焼ける如し、乳房張らず、赤子は呱々乳を索して啼く」とある。その2年後嘉永元年(1848)5月28日、次男千之が急に発熱する。「熱勢頗る劇しく」終夜昏睡、翌朝にも熱は下がらず、慌てて医者を呼ぶが、下痢が収まらず、5月30日四ツ頃ついに力尽きる。「悲惨々々、一家慟哭」。名も無き長男に続き、鰐水夫婦は次男をも若くして亡くすことになる。千之わずかに5歳であった。
 兄を亡くした江木健吉はまだ3歳であるが、江木家を継ぐべき者として育てられる。鰐水は嗣子として期待し、また賢く育った息子を愛したようである。

 弘化4年(1847)5月5日は健吉の初節句だったが「倹約の故を以て」客も呼ばず無人の祝いであった。7、8歳の頃、母方の祖母と共に賢忠寺(福山市にある曹洞宗の寺院)に詣でた際、人々が僧の読む大般若経をありがたがるのを見て、ひとり毅然と「余は儒家の児なり。此の如き物には拝まず」と言い放つような子であった。嘉永6年(1854)黒船来航の年、8歳にして藩校誠之館に入学する。この頃にはまだ世情に余裕があったようで、鰐水の日記にも芦田川での船遊びや、息子たちの勉学の進み具合などといった記述が並んでいる。ちなみに健吉に関しては親バカ気味に、小学を講じても誤りなく音声は明朗だ、などと書き付けている。安政4年の考試(試験)では、最年少(12歳)にもかかわらず甲科(最優等)で合格、金300疋(大体3貫=1両)を下賜されており、かなり早熟であったのは間違いないようだ。文久2年(1862)4月、金子霜山に学ぶため家を出る。6月に福山に一時帰国するが麻疹に罹り、8月の虎利刺(コレラ)流行にも巻き込まれる。
 江木鰐水の日記は幕末維新時期は多忙を極めていたものと見え、残されている日記が少ない。あるいは佐幕から反幕へと立場を変えた福山藩士として、敢えて記録を残さなかったのかもしれない。ともかく文久2年(1862)12月9日に江木健吉は福山藩御供番士に召し出される(十二石二人扶持)。この頃には江木鰐水は隠居の身となり、健吉に家督を譲ったらしい。もちろん幕末動乱の中で鰐水も東奔西走することになるのではあるが。

<つづく>

江木姉妹小伝(61)

 江木鰐水が初めて子を授かったのは天保13年(1842)3月12日のことである。しかしこの男の子は名を付ける間もなく、翌日に夭折している。鰐水33歳、妻の敏は文政7年(1824)生まれであるため、数え19歳ということになる。先妻の政は天保元年(1830)に20歳で亡くなっているため、敏と再婚したのはその後間もなくのことと思われるが、残されている鰐水の日記には記載が見あたらない。
 次子が生まれたのは2年後の天保15年(弘化元年,1844)4月6日のことである。鰐水は三鹿齋日記巻三に次のように記している。

 天保十五年、甲辰、四月六日、婦挙一男児、此日館(註:藩校弘道館
 中温習、晋(註:鰐水)直館中、午牌帰家喫飯、及出、祖母曰、温習畢、
 当直帰、不得他過、阿亀(註:妻の敏)微覚腹痛、恐分娩之期近也、暮
 帰、婦横臥在席、乃為設臥褥、曰、喫飯就褥、周兄(註:五十嵐修敬)
 適至、為按其腹、陣痛頻至、不能喫飯、乃使初蔵呼産婆、且告宗家
 (註:五十嵐家)、婦起上厠、漿水已破漏、還褥上不能坐、依儿俯首、
 産婆至、撤儿、産婆坐前、周兄坐後、使婦努力、再努力、児已生在地、
 発呱々之声、幸哉、挙一男子、胞衣共下、無災無害、宗家主母亦至、
 一家懼欣、実申牌半過之時也、分娩後、婦気色如平日、夜初更周兄以
 其平安欲帰家、余懐児在婦側、婦乍眩暈不省人事、如此者再、救之以
 薬、幸蘇醒、児雖身手長大、色白而不赤、白者多不育、令飲五香湯、
 飲之甚無気力、恐不育、右憂婦、左憂児、心如懸旗不定、情況非他人
 之所知也、夜半婦熟睡、至暁、児色亦赤漸発紅、呱々之声甚壮、糸井
 叔来視曰、是健強之児、何故患其弱、余心初降
 【三鹿齋日記/江木鰐水】

鰐水35歳、当時としては初子を得るには遅い方であると思われるが、出産に際して母は失神、子は血の気が無く、今度の子も育たないのではと心配しきりの様子が見える。この男児お七夜に千之(通称千之進)と名付けられる。江木衷兄の江木千之は嘉永6年(1853)生まれなので、元祖江木千之はこちらである。

つづく。

と、いうわけで<江木鰐水編>終わりです。ご静聴ありがとうございました。
ちなみに鰐水古希祝いは、日本歴史上初の立食パーティーとして記録されて
いたりします。

しかしまあ、モノ書くのも久しぶりなんで調子がでませんな。思ったより長く
なりすぎだし。ま、そのうち加筆訂正するってことでご勘弁を。

さて次は「江木鰐水の息子たち編」です。
(まだ書いてないのでいつになるやら分かりませんが)

ではまたいずれ。

江木姉妹小伝(60)

そうして旧士族による反乱が各地で噴き出ることになる。明治7年佐賀の乱明治9年熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、長州萩の乱、そして明治10年(1877)には遂に薩摩の西郷隆盛が下野し、西南戦争が勃発する。

 江木鰐水は福山にあってこれらの騒動には参加していない。それよりもその背景にある藩士たちの救済が急務であることを悟り、士族授産に骨を折っている。明治時代になってから鰐水が尽力したのは福山の治水・水利事業と、養蚕事業の普及であり、福山城小丸山に桑を植え、養蚕を奨励する。治水事業については、そのあまりもの熱中様に周囲から「水狂い」とまで陰口を叩かれたという。その一方嗣子健吉が明治4年(1871)に病没、明治6年(1873)には頼山陽塾以来の先輩門田朴斎が没。同年甥であり交流の深かった五十川基が死亡。明治9年(1876)には関藤藤陰没と、交流ある人々との別れが続く。明治10年(1877)には息子たちのいる東京に移住。浅草井生村楼で古希祝を済ませた翌明治13(1880)年には、嗣子四男高遠が留学先の米国で客死したとの報を聞く。幕末の動乱を経て平和な時代を迎えたはずであるのにもかかわらず、老齢の鰐水には悲報が続いている。そして江木繁太郎鰐水は翌明治14年(1881)10月8日、東京にて病没する。東京谷中天王寺に葬られた。数え72才の大往生であった。谷中霊園に墓が残されている他、福山城明治27年(1894)に建立された遺徳碑が残されている。
 江木鰐水と先妻道(のち政)の間に子はなかったが、後妻亀(年または敏)との間には7男授かっている。長男次男(長男は名不詳、次男は千之という)は若くして没し、三男健吉、四男高遠、五男保男、六男松四郎、七男信五郎である。彼らは明治の時代の中でそれぞれ活躍していくことになる。

<つづく>

江木姉妹小伝(59)

 満を持した新政府軍は明治2年(1869)4月9日早朝、山田顕義率いる兵1,500人が乙部に上陸し函館を目指した。しかしこの戦いに江木鰐水は参加しておらず、青森に居残りとなっている。理由は不明だが、青森において函館戦争の実記や報告書、建言書などを多数書いている。鰐水はこの年還暦を迎えており、そのせいもあったかもしれない。ともかく新政府軍は次々と援軍を投入、共和国軍も兵数を逆転され、元新撰組土方歳三などの奮戦もあったが、5月18日遂に降伏、五稜郭を開城、共和国軍は武装解除する。ここにおいて日本の歴史上唯一の共和国は霧散することになる。江木鰐水は戦いの終わった函館で藩兵に合流し、5月25日英国船にて函館を発ち、福山に凱旋する。こうして福山藩にとっても鰐水にとっても幕末は終わりを迎えたのであった。

 明治の世になり、時代の寵児となった旧田舎侍たちは退去して東京を目指し、続々と政府・官僚になっていく。それなりに有能であった幕府官僚を一掃し人材が払底していたこともその背景にある。関新平・清英も江木千之・翼もその流れに乗っている。鰐水にも新政府から大学講師に招きがあったようだが、それを固辞し、福山のために尽くす道を選ぶ。明治2年(1869)、鰐水還暦の歳である。
 明治2年(1869)6月17日版籍奉還により中央集権が成り、明治4年(1871)7月14日には廃藩置県により福山藩を含め、旧来の幕藩体制、ひいては藩主と藩に忠誠を尽くす藩士たち武家社会という関係は消滅する。特権階級であった武士階級はこれまで藩、のちには明治政府を通じて家禄を受けていたが、ここに至って一時金や公債を渡されることで家禄を廃され、この後は自ら生活費を稼がなければならなくなった。これまで武術と藩務による官僚技術しか持っていない彼らが、武家の商法と云われるように、商人や農民に互して商業や農業で生活を立てられる訳もなく、また、これまで士農工商として支配階級であることが当たり前であった彼らにとって、四民平等政策は新しい支配階級(明治政府)による裏切りとさえ見えた。旧幕府側はもちろんのこと、維新に命を張って邁進したはずの自分が禄を巻き上げられ、世間に放置されたことで、旧官軍側でも不満を募らせる旧武士が多くいた。

江木姉妹小伝(58)

つまり、鰐水が五稜郭に向かったところ、大総督はとっくに五稜郭を放棄して函館に引き払っており、五稜郭は旧幕軍に占領されているという。驚いた鰐水は函館に急ぐが、兵隊も消え失せている。宿屋に聞いたところ、新政府軍はとうの昔に船で青森に撤退しようとしているという。鰐水が急いで浜辺に走ると、既にハシゴも上げて出発寸前。鰐水に気付いた岡田総督が大縄を投げてくれたので乗船できたものの、昨日五稜郭を厳守すると決めた舌の根も乾かぬ内に「五稜郭には水もなし守るのは厳しい。ここは一旦青森に帰って体勢をを立て直そう」と決まり、さっさと兵を引き上げようとしている途中だったというのである。
 青森に着いたものの鰐水は納得できず、飯も喉に通らない。前日までは函館で死まで覚悟しておきながら、安穏と青森に引き上げることの心苦しさが見えるが、結局は無理に函館で防衛戦を行ったとしても、榎本軍3,000名に対し新政府軍は福山・大野藩の650名足らず。圧倒的な兵力不足と準備不足は否めず、自らを慰めることになる。旧幕軍は10月26日五稜郭に無血入城、11月5日松前藩松前城を陥落、11月20日までには蝦夷地を平定する。こうして函館における前哨戦は幕を閉じたのである。
 旧幕軍は年の暮明治元年(1868)12月蝦夷共和国樹立を宣言、日本初の選挙により榎本武揚が初代(そして唯一人の)総裁となった。新政府軍は巻き返しを図るべく清水谷公考を青森口総督に任命、陸軍では全国より7,000名の兵を掻き集め、海軍では米国より最新鋭の装甲艦(甲鉄艦)を購入し、翌春明治2年(1869)蝦夷地征討を期する。
 北海道共和国軍では前年11月、悪天候により新鋭艦開陽丸と神速丸を失い、自慢の海軍力が大きく低下していた。共和国軍では新政府軍の甲鉄艦を奪うべく3月23日宮古湾海戦を仕掛けるが敗北、更に軍船一艘を失う。

江木姉妹小伝(57)

 一人に遇ふ。余の手を挽きて、回して之が曰く、「銃声を聞く進むべからず」と。余謝し、要緊の事にて、五稜郭に赴く。銃声は未だ留るべからず。亦五・六丁を進む。津軽藩士の五・六人も亦余を留めて曰く、「大総督(清水谷公)、昨夜函館に帰りて、郭中に官軍無く、賊既に之に依れり。僕等は守りに入らんと欲して、橋外に到れば、郭上より銃を発ちたり。大呼して曰く、『津軽の兵隊守りに入らんと欲す』と。又銃を発てば、乃ち還るなり」と。予は之を聞きて、驚駭し倶に還る。
 函館に入り、市人の出でて観るに、夷然として驚かざる者有り。負担して立つ者有り。南部陣屋に到れば、我が兵隊在らざるなり。東本願寺(荷役)を問へば、一人だに見えず。弁天砲台を問へば、一人の在る無し。益々驚怪す。
 以為へらく(おもへらく)、函館を守らんと欲して、南部陣屋・弁天砲台を守らずそて、何れの地を守らんと欲すと。路に土著の吏(地元民)に遇ふや、余を見て狼狽し、目は笑い得意の色有り。蓋し此等が内応して賊を導きしなり。
 遂に逆旅(宿屋)の長崎屋に帰れば、曰く、「総督以下、皆船に乗り去らんと欲す。速に船に登らずんば、恐くは後れん」と。走りて海浜に出づれば、兵隊皆一夷艦(陽春丸)に在り。小艇を雇ひ之に赴く。既に梯子を釣り上げて、上がるべからず。岡田総督、余の来るを見て、大いに喜び、大縄を垂らしければ、攀ぢて艦に入る。山岡・大林の二監督皆在りて、相見て、恙無きを賀すと雖も、事意表に出づれば、心は揺々として定らず。
 蓋し昨二十四日申牌(十六時)、晋(鰐水)は五稜郭に在りて、死守の議を決し、弁天崎砲台の兵尽く五稜郭に入れんとす。議は驟(にわか)に変じて、曰く、「郭中に水無く、守るべからず。暫く青森港に避け、再び王師を整へ、恢復を行(な)さん」と。此を万全の方策と為す。多く兵士を殺すは、無為なり。夜半既に航海す。而して我が兵隊も之に従ひて去る。副督も又倶に去る。留る者は、山岡源左衛門・前田藤九郎のみ。
【北征記行/江木鰐水】